インターネットと現実がシームレスになった「ポスト・インターネット」の世界では、デジタルでもフィジカルでも、あらゆる時代の音楽作品がリイシューされ、簡単に手に入るようになった。リイシュー盤は、2つの意味合いを持つ。ひとつは、古い音源を新しいメディアで利用すること。そしてもうひとつは、新しいオーディエンスに向け、改めて音を紹介することだ。2016年3月、ベイエリアのパワーバイオレス・トリオ、SPAZZのコンピレーションが2種リリースされた。9年間の間にSPAZZは、大量のEPとスプリットをリリースし、多数のコンピレーションにも参加。これらは、元々SLAP A HAM RECORDSによってコレクションされ、『Sweatin’ To The Oldies』(1997年リリース)には1993年〜1996年の作品が、『Sweatin’ 3: Skatin’, Satan & Katon』(2001年リリース)には1995年〜1998年の楽曲が収録されていたが、この度TANKCRIMESからリイシューされ、初めてiTunesやSpotifyなどのデジタル音楽配信サービスでも購入可能になった。
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エクストリームミュージックを取り巻く状況は、大きく様変わりしている。SPAZZが活動をしていた頃、パンクバンドとメタルバンドはそれぞれ異なるオーディエンスに向けてプレイしていたが、パワーバイオレンスはそのどちらにも属さないジャンルであった。しかしSPAZZは、サウンド面というよりも、パンク・カルチャーのカラーが強かったため、パンクスたちに受け入れられ、その活動は、カリフォルニア州バークレーの「924 Gilman Street」のようなライヴハウスに限定されていた。しかし、あれから20年、SPAZZの弾丸サウンドは、見事にジャンルの壁をぶち抜いた。さらに言えば、ジャズもファンクもユーモアも、SPAZZには存在している。これらのアプローチは、モーターオイルとなり、SPAZZ流ハードコアに円滑さを与えていたのだ。カンフー映画、ヒップホップ、スケボー映像、テレビ番組、B級ムービーなどのサンプリングを経て、SPAZZはいっ気に爆走する。30秒の曲なら、まずは15秒サンプリング。残り15秒で、超ド級メタリックハードコアをかます。2種のコンピレーションには、合計131曲が収録されているが、その曲間は、グルーヴとスウィングとダッシュのための準備体操のようなものだ。コンピレーションのリリースを記念して、ギタリストのダン・乳糖・ボレッリ(Dan “Lactose” Bolleri)、ベーシストで「SLAP A HAM RECORDS」の創設者クリス・ドッジ(Chris Dodge)、TANKCRIMESのオーナーであるスコッティー・空手・ヒース(Scotty “Karate” Heath)の3人にご足労願い、話を聞いた。SPAZZとは何者だったのか?SPAZZはどうしてこうなったんですか?クリス:俺たち、最初から激しく演るのは決めてたんだけど、他のハードコアバンドみたいに、型にはまったアプローチはしたくなかった。だから、きめ細かく曲を創り、タイミングをずらし、ハードコアにとっては「アウトサイダー」な楽器も入れた。そして大量のサンプリング。曲間、ときには曲中にも入れたんだけど、やりすぎないようにすごく意識した。だから俺たちのサウンドは、子供騙しやジョークにならなかったんだ。ダン:『Sweatin’ To The Oldies』は、初期の曲を全部集めたもので、マックス(Max Ward : ドラム)と俺で書いたファースト7インチから、セカンドアルバム後にレコーディングした、京都のTOASTとのスプリット盤までが入ってる。SPAZZの成長がわかる。俺とマックスとクリスは、どんどん激しく、速くプレイできるようになった。俺たちがどのタイミング何を閃き、その後、どこへ向かったか、『Sweatin’ To The Oldies』ではわかるんだ。曲をレコーディングしたとき、まさか20年後も聴かれ続けている、という予感はありましたか?ダン:もちろん、まったくなかった。俺たちは、たくさんのレーベルから相当数のオファーを受けた。だから大量の曲を書いては、1回のスタジオですべてをブチかまし、録音した曲をわけてレーベルに送りつけてたんだ。そのほとんどは作品としてリリースされたけど、陽の目を見なかった曲もある。アルバム制作はもっと慎重にやったけど、それが廃盤になったときには、「まぁ、そんなもんだろうな」って納得してた。それなのに、今になって、こんなもんに熱狂する人間がいるなんて思いもしなかった。活動してた頃より、今の方が人気あるんじゃないかな。
スコッティーさん、SPAZZを知ったいきさつを教えてください。スコッティー:SPAZZが活動していた頃、俺はまだ高校生のガキだった。ミシガン州のブライトンっていう小さな街に住んでたんだけど、RANCIDやCRIMPSHRINE、OPERATION IVYといったベイエリア系バンドを聴き始めたところだったんだ。そんなバンドに影響を受けて、1998年に俺はサンフランシスコに引っ越したんだけど、アンダーグランド・シーンを知れば知るほど、もっとクールなバンドがいるのに気がついた。それまで俺は、ただのパンクファンだったんだけど、ベイエリアのアンダーグラウンド・シーンは本当に自由で、俺もその一部になれたんだ。SPAZZを知ったのはこの頃だ。とにかく彼らの曲を聴き漁った。俺は真っ当なミュージシャンじゃなかったけど、彼らの音楽がどこでスタートし、ストップし、スピードアップし、スローダウンするかが感覚的にわかったんだ。それに彼らは、ヒップホップやグラフィティにもオープンだったろ? 俺はそんなシーンも大好きだったし、それがベイエリアに移った理由でもあったんだ。さらに加えると、SPAZZは普通のパンクスみたいに、パッチのたくさんついたレザーを着ていなかった。ファッションで、定義されるのを真っ向から拒否していた。そんな姿勢も大好きだったんだ。どうしてあなたがリイシューすることになったんですか?スコッティー:YouTubeでSPAZZの楽曲を聴き漁っていると、動画に作品購入ページへのリンクがないのに気がついた。SpotifyやiTunesもチェックしたんだけど、SPAZZの作品は1つもなかったんだ。それで俺はその日のうちに、ダンにメールして、作品のカタログについて問い合わせた。その後メンバーと何回かメールでやりとりした後に、一緒にこのプロジェクトをスタートさせたんだ。リイシューされた作品のCDは、10年以上も前に廃盤になっていたんだ。新しいスタートみたいな気分だった。俺のレーベル「TANKCRIMES」は、もちろんクリスのレーベル「SLAP A HAM 」からも影響を受けているんだけど、マックスのレーベルである「625 THRASHCORE」からは、それ以上のインパクトを受けた。というのも、「625 THRASHCORE」は、VÖETSEKとか、俺のバンドをリリースしてくれた。マックスと一緒に作業して、「625 THRASHCORE」のカタログの一部になったのは、本当に俺の中でデカかった。「TANKCRIMES」を始めてからは、ダンも協力してくれて、レーベル3枚目のリリースは、彼のバンドFUNERAL SHOCKの7インチだったし、数年後にも別の7インチをリリースした。そして、ダンが今やってるDENY THE CROSS* の新作も準備中だ。年内にはリリースできるだろう。
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このコンピレーションは、あらたにマスタリングされていますが、聴き返してどうでしたか?ダン:昔の記憶が蘇ったよ。レコーディングは楽しかったな、って。俺たちのほどんどの作品は、「House Of Faith Studio」で録って、エンジニアはいつもバート・サーバー(Bart Thurber)だった。だからいつも同窓会みたいだったんだ。バートは、俺たちがどのように作業したいのかわかってたから、彼はただそこにいて音を録るだけでよかったんだ。俺たちがアドバイスを求めても、軽く指示があるだけだったけど、的確だから問題はなかった。俺は、今もベイエリアいる唯一のSPAZZメンバーだ。あの頃から状況は大きく変わってる。パンクプロジェクト「Epicenter Zone* 」、バレーパーキング** なんてなかったバレンシア・ストリート。スケートパークなんてもちろんなかったから、普通に道を滑っていたし、イースト・パロアルはクスリの溜まり場。そういえば、当時は、サンフランシスコ・グラフィティは全盛期だったな。そして、もう連絡もつかない昔の仲間。様々な記憶が蘇ったよ。