キム・ジュイル(43歳)は、朝鮮人民軍に8年間従軍したのち、2005年、鴨緑江を泳いで渡り、脱北した。現在、彼はロンドンで暮らし、在欧朝鮮人団体の代表を務め、脱北者支援、朝鮮労働党の人権侵害糾弾などの活動を続けている。
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キム・イルソン(金日成)の死を知ったのは、38度線の近くです。当時、北朝鮮に電力はほとんどありませんでしたが、国境近くにいましたので、韓国のスピーカーから流れる大音量の放送が聞こえてきました。「デマだ。総書記が死ぬはずない。どうして偉大なる指導者が死ぬんだ。総書記は不死身だ」と口には出さずに放送を否定しました。
それは想像を絶する出来事でした。私は哭きました。みんなも哭きました。毎朝、兵士は総書記の記念碑に花を手向け、哭きました。「これからどうやって生き延びるんだ。生活はどうする。私たちの運命はどうなる。総書記は本当に逝ってしまったのか」と嘆き悲しみました。これは洗脳の結果です。
学校での勉強は、3割が偉大なる指導者についてでした。約2割は、土地と資本を持つブルジョアについてです。彼らは、私たちの敵でした。私たちが生活しているのは楽園であり、そこをブルジョアに侵されてはならない、と教わりました。
毎月、当局は私たちの教科書を回収し、調べます。私のクラスには、互いをライバル視する二人の少年がいました。そのひとりが、もうひとりの成績の良さに嫉妬し、キム・イルソンのポートレイトが掲載されている教科書を借りました。そして、そのポートレイトに落書きをして返しました。その後、当局は、教科書チェックで落書きを発見しました。そして、落書きをした少年の家族は、一晩にして行方がわからなくなりました。これは、ごく普通な出来事です。「不敬罪」と呼ばれています。禁句を口にしてしまったばかりに、刑務所に連行される市民を目にしながら、私は育ちました。私たちは「壁に耳あり」と怯えていたんです。
10歳ではじめて公開処刑を見ました。私は席に着き、「この男は罪を犯したんだ。楽園を汚したんだ。罰せられて当然だ」と心のなかで呟きました。処刑された男は、クラスメイトの義理の兄でした。当局の発表によると、男は中国に行き、博物館で何かを盗んだそうです。全校生徒が公開処刑を見なければなりませんでした。皆、公開処刑を観視する義務があったので、政府は大きなスタジアムで公開処刑を執行します。そこでは、席順に重要な意味がありました。中国に入国した経験がある国民が最前列に座らされます。その後ろに、はっきりと意思表示する国民が座らされます。席順は警告です。
17歳になると、私は朝鮮人民軍に入隊しました。男性は、10年間の従軍を義務付けられています。北朝鮮には、大学の体を装った士官学校が54校もあります。世界世論の批判を避けるためにそうしているのです。生徒数が多すぎて軍事教練など不可能だ、と諸外国は判断するでしょう。
ようやく朝鮮人民軍のいち員になれる、と私は誇らしい気持ちになりました。朝鮮人民軍は人民の幸福のために存在すると信じていました。私は優等生でしたから、学校の授業を鵜呑みにしていたんです。いざ軍に配備されると、授業と現実の差異に愕然としました。配属前夜、私たちは、真新しい軍服を支給されました。しかし、初日、上官に軍服を脱ぐよう命令されます。上官は、着古した軍服と新しい軍服を、無理矢理交換するのです。それだけではありません。配属のお祝いに、家族や友人から贈り物、食料を持たされます。それも上官に奪われます。私が、「返してください」とたてつくと、殴られました。彼ら曰く、「軍隊とはこういうものだ」そうです。
3年間、少なくとも、日にいちどは殴られました。私も、昇進すると、部下に暴力を振るいました。間違っているとは思いませんでしたから、罪悪感は全くありませんでした。それが兵士の日常だったんです。軍隊での人権がどういったものかなど、誰も知りません。軍隊に、人権、という概念はありません。
入隊すると、私は炊事兵になりました。米だけ与えられ、7品の食事を用意しろ、と命令されました。「白米以外はどうしたらいいのですか」と質問すると、「やれることをやれ」との答えでした。夜中になると、上官は私たちを叩き起こし、ひとりにひとつずつズタ袋を配ります。私たちは、地元の畑に忍び込み、食料を掘り起こさなければなりませんでした。トマト、キャベツ、ジャガイモなどを盗みました。人民軍は、盗みで食いつないでいたんです。
私たちは、24時間飢えていました。日に600gの米が支給されるはずでしたが、支給の途中でみんながちょろまかすので、私たちのところには、ひとり当たり200g程度しかまわってきませんでした。おかげで、みんな栄養失調でした。だがら、たくさんの兵士が脱走しようとします。
北朝鮮では「餓死者ゼロ」を国是のひとつに掲げていますので、上官として、部下の死因を「餓死」とはできませんので、急性大腸炎、と死亡証明書に記載しました。大勢の女性兵士も餓死しました。餓死する直前、彼女たちの髪の毛は抜け落ち、乳房はなくなってしまいますから、餓死した女性を見ても、性別はわかりません。
北朝鮮では、ほとんどの人民が行政区間の移動を禁じられていますが、仕事柄、私は国内を自由に移動できました。空腹が窮まり、脱走する兵士を摘発する任務を任されていました。そうした行動をとる兵士は、自らの運命を知っていますから、故郷に戻り、母親と最後の食事をします。任務で国じゅうをまわり、私は、何かが間違っているのに気付き始めたんです。どこに行っても、人民は飢え苦しんでいました。どの駅にも保健所がありますが、そこには無造作に並べられた死体の山がありました。
電力不足のせいで、しばしば、列車の発着が数日遅れました。地元の住民は、1kgの米を渡せば泊めてくれたのですが、私は駅で寝ました。彼らは、自宅に他人を招き、殺害してその肉を食べる、という噂を耳にしていたからです。市場では人肉が取引されている、との噂もありました。人肉売買の咎で公開処刑された男性もいました。彼は医師でした。共同墓地から死体を掘り起こし、その肉で餃子をつくっていたそうです。
長年、私は朝鮮労働党に疑念を抱いてはいましたが、姪の死を目の当たりにするまで、脱北には思い至りませんでした。私が家に帰ると、きちんと食事が準備されていましたので、家族が困窮しているとは知る由もありませんでした。本当は、困窮していたのです。ある日、私の姉は、彼女の娘に、近所をまわって米をもらってくるよう命じました。すると、姪は、米のかわりに干(ほし)トウモロコシをもらいました。干トウモロコシをそのまま食べれば喉がカラカラに乾きますから、誰もそんなことはしません。姪は、それを母親から教わっていなかったので、知りませんでした。姪は干トウモロコシを食べてしまい、渇きを癒すために飲めるだけの水を飲みました。その結果、腹部はありえないくらい膨張し、まだ2歳だった姪は命を落としました。
そんな事件の後、私は脱走兵を探し出すために、彼の故郷である中国との国境にある咸鏡道に行きました。私は、それ以前にもそこを訪れており、脱北を試みようとしましたが、両親の顔が脳裏をよぎり、実行に移せませんでした。しかし、そのときは違いました。咸鏡道への道中にある故郷も素通りしました。もし、故郷で両親に会えば心変わりするのがわかっていたからです。
探し出した脱走兵たちを列車に乗せ、私は列車から降りました。そして、北に向かう別の列車に乗り換え、咸鏡道と中国の間に流れる川に向かいました。その夜は満月だったので、渡河するには明るすぎました。2日後はうってつけな暗さでした。真夜中、私は川まで歩きました。すると、干ばつのため、川の水位が下がっていたので、普段は川底にある砂利の上を歩かざるをえませんでしたが、そうすると大きな音がしてしまいます。私は、外套を脱ぎ、地面に敷き、その上を歩いて枯れ細った川に向かいました。
川沿いには、50mおきに警備兵が配置されていました。岩のつもりで近づくと、それは、銃を携えた警備兵でした。私にとっては生きるか死ぬかの局面でしたので、死を覚悟し、戦う決意をしました。しかし、8月のとても暖かい夜でしたから、近づくと、兵士は居眠りしていました。私は、進む方向を変え、水に入って泳ぎました。
中国に入り目にした現実を北朝鮮のそれと比べると、私は、自らが洗脳されていたのに気付きました。その後、ベトナム、カンボジア、タイを経由し、イギリスに辿り着くまで2年かかりました。かつて、私は北朝鮮を、楽園だ、と信じ込んでいましたが、イギリスに亡命して、決して楽園ではなかった、と悟ったのです。