偉大な功績を持つ写真家、ジル・フリードマン(Jill Freedman)。フリードマンは子供の頃、自宅の屋根裏部屋で雑誌『LIFE(ライフ)』に掲載されていた、ホロコーストをドキュメントした記事の写真をきっかけに、写真の世界にのめり込んだ。 思春期を迎え、成人した後も原体験を忘れられず、自らの写真を通して、幼少期に彼女自身が写真に魅せられたのと同じように、彼女は、人々に物語を届けようとしている。
1970、80年代にフリードマンが2度にわたり、ニューヨークの伝説的なナイトスポット、〈ローズランド・ボールルーム(Roseland Ballroom)〉で撮影した写真を彼女はこう語る。
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「ローズランドは、ニューヨークで最高のスポットのひとつでした。2つのバンドが演奏する、由緒正しいダンスホールで、出会い、飲み、笑い、気が狂うほどダンスを踊れるスポットでした。ローズランドは、ダンス好きであれば、年齢や人種に関係なく楽しめました。踊っていると、自然と笑みがこぼれ、最高の気分になります」
「当時、踊るときは必ず、人と人の交流があったものです。現在のように、音楽が大きすぎて、話し声が聞こえないなんて、あり得ません。週2回、昼のイベントも開催されており、一人で座ってテレビを見たり、チャットで人とおしゃべりしたりするのに比べて、充実した午後を過ごすには最適でした」
「ボール・ルームではロマンスもありましたが、ディスコになってしまいました。ペンシルベニア駅、古いメトロポリタン劇場、おいしいエッグクリームと同じように、なくなってしまいました。ブロードウェイの子守唄を聴きたくても、もう聴けません」
フリードマンがいう子守唄とは、彼女が1930、40年代に聴いていたハリウッド映画のなかで流れる音楽である。フリードマンにとって、〈ブロードウェイの子守唄〉とは幼年期の希望と、1964年以来、何度も訪れ、第二の故郷になったニューヨークへの愛情を表現している。子供の頃、ペンシルベニア州ピッツバーグで映画を観ながら、ジルは、劇中で起きる素晴らしい結末が、自分の人生にも訪れると信じていた。その後、そんな結末が誰にでも訪れるワケではないとわかった後も、その感情が、彼女がボールルームを撮影する動機になった。
フリードマンは、初めてローズランドのコンサートへ行ったとき、カメラを持っておらず、カウント・ベイシー(Count Basie)とビッグバンドが奏でる曲にあわせて踊った。ベイシーの演奏中、フリードマンは、夢にまでみた銀幕のなかにいるような気分だった。「ビッグバンドの演奏で踊るのが大好きで、これが大人になることだと思っていました」と彼女。会場のあちこちで、ときおり寂寥感がちらつくなか、みんなが幸せに包まれ、社交的に振る舞い、ロマンスを求めていた。彼女は、その刹那を写真に記録することにした。
後にフリードマンはカメラを持って、ある昼のイベントに参加した。他の入場者と同じように入場料を払って会場に入ると、彼女は、他のゲストたちに微笑みかけて写真を撮った。「こちらに悪意がないとわかれば、みんな撮影させてくれます」と彼女。「彼らの大事な時間と空間を尊重している、と了解してくれるんです」
フリードマンがローズランドを愛していたのは、そこが〈古き良きニューヨーク〉を体現していたからだ。常連たちは、彼女と言葉を交わすと、写真を撮らせてくれた。彼女によると、ダンスが素晴らしく上手な年配の常連がたくさんいたそうだ。
時流とともに、フリードマンが温もりを感じていた雰囲気が変わってしまうと、彼女は深く憤った。「ディスコが憎いのには、もうひとつ理由があります」。ディスコ・ブームが到来したが、それは、彼女にとって、機械的で騒々しいものだった。はじめてのディスコで体験した、壁一面のスピーカーから音楽が鳴り響く様を、〈整然と並んだ四角形〉が音をまき散らす、と彼女は描写した。
「ディスコが最初に登場したとき、ミュージシャンから職を奪ってしまう、と感じました」と彼女は回想する。「今振り返ると、このときの感覚は、正しかったんです」。彼女が成人した当時、ミュージシャンはいつも楽器を演奏していたので、彼女は、彼らがステージ上で、血の滲むような努力をしなければならないのを目の当たりにしていた。彼女は、ライブ・ミュージシャンの生き方を理解していた。若い頃、彼女は路上ライブだけでヨーロッパを旅した。美しい歌声と、基本的なコードの知識が彼女にはあったので、道端やクラブで演奏して、彼女がいう〈生活と放浪と探検〉のための、十分な金を稼げたという。
フリードマンにとって、ディスコの到来は、古き良きニューヨークの終焉だった。彼女曰く、人間関係と生演奏が、ドラムマシンの発する大音量の騒音に取って替わられたのだ。ローズランドは、人と人との繋がりの重要さを実感させてくれたのに、と彼女は嘆く。体を寄せ合い、踊りながら「相手と会話できた」そうだ。
しかし、ローズランドでの2回の撮影時、彼女は、必要以上の会話を誰とも交わさなかった。ローズランドがレンタル専用ライブハウスになり、2014年に閉鎖する数十年も前の話だ。彼女は、被写体探しに必死だった。「街なかで何かを注視しているとき、私は会話できません」と彼女。「そんなとき、話をする余裕はありません。瞬間を直観し、それを捉えられるかを見定めるのです」
彼女が当時を思い返すと、最初に浮かぶのは〈ブロードウェイの子守唄〉だ。それはローズランドがシアター地区、ブロードウェイのニューヨーク52番街にあり、彼女にとって懐かしい雰囲気が、そこにあったからだ。たとえば、ニューヨークの日常にある高揚感、そして、見知らぬ人同士にも関わらず共有できたグルーブ感。この曲は、1935年にハリー・ワレン(Harry Warren)とアル・ドゥビン(Al Dubin)がバスビー・バークレイ(Busby Berkeley)の映画『The Gold Diggers(ゴールド・ディガース)』(1935年)のために作曲して以来、多くのパフォーマーがカバーしてきた。 フリードマンは今でも簡単に暗唱できる。歌はこう始まる。
Come on along and listen to(こっちにきて聞いておくれ)
The lullaby of Broadway(ブロードウェイの子守唄)
The hip hooray and ballyhoo(ヒップホレーとバリフー)
The lullaby of Broadway(ブロードウェイの子守唄)
The rumble of a subway train(地下鉄の響き)
The rattle of the taxis(タクシーの振動)
The daffodils who entertain At Angelo’s and Maxi’s(アンジェロとマクシォで演出するタンポポ)
When a Broadway baby says good night(ブロードウェイベイビーがおやすみを言う時は)
It’s early in the morning(早い朝)
Manhattan babies don’t sleep tight(マンハッタンベイビーはよく眠れない)
Until the dawn(夜明け前まで)
Good night, baby(おやすみ、ベイビー)
Good night, the milkman’s on his way(おやすみ、牛乳配達員は来る途中)
Sleep tight, baby(よく眠れ、ベイビー)
Sleep tight, let’s call it a day(よく眠れ、今日は終わりにしよう)
Listen to the lullaby of old Broadway(ブロードウェイの子守唄を聞きながら)
この曲が、なぜローズランドのダンスフロアのスピリットを象徴するのか。フリードマンは説明してくれた。「これは、当時の子供たちの思い出です。でも、今のニューヨークではもう体験できません! 今では皆が徹夜して、タクシーの音を聞きながら、夜明けに帰宅するような街になってしまった」
ローズランド、子守唄は、フリードマンの写真的視点の大部分を占める魔法のビジョンのひとつでしかない。移ろいゆく〈今〉の儚さ、試練や痛みが複雑に混じり合う世界にある純粋さ、悦び。心が痛むような事象が被写体であろうと、彼女が撮らえるのは、永遠になくならない心の機微だ。
「今でもワルツに憧れています。映画のヒロインのように、王子様の腕の中でね。もちろん、私はシフォンに身を包んで…」
フリードマンの作品は、ニューヨーク近代美術館(the Museum of Modern Art)、国際写真センター(the International Center of Photography)、ジョージ・イーストマン博物館(George Eastman Museum)などに所蔵されている。ストリートの社会学やヒューマニズムに興味をもつ彼女は、インスタグラム(@jillfreedmanphoto)を定期的に更新しており、ニューヨークのスティーヴン・カッシャー・ギャラリー(Steven Kasher Gallery)に所属している。