ハウス。現在おそらく世界的に最もポピュラーなダンス・ミュージックのジャンルであり、誰でも何となく聴いたことがあって知っているような感じがしている音楽。レゲエやヒップホップがサウンドシステムやブロック・パーティーといった、屋外などの即席パーティー会場で育まれたDJカルチャーである一方、ハウスはまさに「クラブ」、要するに人が踊るために作られた専用の設備で鳴らされてきた音楽であり、ハウスの歴史はクラブ・カルチャーの歴史とほぼ同義です。つまり、ハウスの歴史を紐解くことはクラブ・カルチャーの歴史を紐解くこと!んー、実に大きなテーマではありますが、その中で特に重要な役割を果たしたDJたちに焦点を当てつつ、ハウス・ミュージックの成り立ちと発展をまとめてみたいと思います!
ハウスがシカゴで生まれた音楽だってことはだいたい皆さんご存知だと思いますが、でも意外とそれを定義してみようとすると難しい。「ハウスとテクノはどこが違うの?」という質問はしばしば受けますし、デリック・メイは「俺はテクノDJじゃない、ダンス・ミュージックDJだ!」といつも言ってますし、筆者もかつてフランソワ・K先生を「ハウスDJ」と形容してご本人にえらく怒られた経験もあります。そこら辺のモヤモヤも、このシリーズを読み進めるうちにだいぶ明らかになるはず。
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音楽ジャンルのルーツというのは遡ろうと思えばどこまででも遡れてしまうので、ここではズバリ、「ディスコ」を起点としたいと思います。DJが音楽をかける音楽に合わせて人が踊る場所、それが一般化したのが爆発的なディスコ・ブームによるものだったから。それ以前のパーティーでは、生バンドやジュークボックスが音楽を演奏/再生していました。が、ディスコを契機にディスク・ジョッキーがチョイスする、その多くがソウルやファンクといった黒人音楽の「踊れる」レコードを次々と流し、踊り明かすという形態の夜遊びが定着します。
MFSB featuring The Three Degrees – Love Is The Message
このディスコ文化の開花と密接に関わっていたのがニューヨークのゲイ・シーン。69年に起こった、特にアフリカ系やラティーノ系のゲイやトランスジェンダーたちによる、それまでの警察による迫害に対する暴動、ストーンウォールの反乱を機に、同性愛解放運動が盛り上がっていきました。この、つまりマイノリティーの中でも最もマイノリティーであった人々の運動のサウンドトラックとでもいうべき音楽が、ディスコだったんですね。(ちなみに、ちょうど現在、もうすぐ公開予定のこのストーンウォールの反乱を扱った映画『Stonewall』が白人中心に描かれていることがかなりの反発を招き、ボイコット運動に発展するなどニュースになっております。)
この特性上、ディスコはもともととってもアンダーグラウンドなものでした。その中でもその後の世代に最も多大な影響を及ぼしたのが、正式には1970年に始まったDJデイヴィッド・マンキューソのパーティー/クラブ、The Loft。その名前を耳にしたことがある方も多いかと思いますが、これももともとはゲイ・コミュニティ向けの招待制パーティーだったんです。ここの常連が、まだ十代だったニッキー・シアーノやラリー・レヴァン、フランキー・ナックルズなどでした。彼らはThe Loftでダンス・ミュージックに目覚め、膨大な音楽とオーディオ機材の知識を持つマンキューソに、DJとサウンドシステムの手ほどきを受けます。
同じ頃に初めて2台のターンテーブルとミキサーを使用して曲と曲をシームレスに繋ぐ”DJミックス”を始めたと言われるDJフランシス・グラッソのSanctuaryが、72年にはシアーノのThe Galleryが、74年にはFlamingoが、そして77年にはParadise GarageやStudio 54、Limelightなどのクラブがオープンし、ニューヨークのナイトライフが本格的に開花。中でもラリー・レヴァンがレジデントDJを務めたParadise Garageは、彼の革新的なDJテクニックと圧倒的なサウンドシステムによって、DJカルチャーとダンス・ミュージックの発展に最も影響を及ぼすことになります。個別の音域ごとにボリュームを調整し楽曲のダイナミズムを演出する”イコライジング”や、雷や電車が走り抜ける音などの効果音の使用、イントロやブレイクを延長したり同じ箇所を繰り返したりするように楽曲を構成し直す”エディット”などを駆使し、DJプレイをそれまで誰も体験したことがなかった次元に押し上げたのがラリー・レヴァンだったのです。
Central Line – Walking Into Sunshine
ここでも強調しておきたいのは、Paradise Garageもその客層のほとんどが有色人種のゲイであったということ。一般社会では様々な偏見や差別、迫害を受けていた彼らが安心して自らを解放し、自己を肯定し、心ゆくまで遊ぶことが出来た場所。だからこそ、特別なエネルギーに満ちていたのでしょう。(あのマドンナもデビュー前からここに出入りしていたのは有名な話。)
PEECH BOYS – LIFE IS SOMETHING SPECIAL
それまではファンキーなソウルとR’n’Bを中心に、ビートの効いたジャズやロック、ラテン音楽などがプレイされていましたが、こうしたディスコとDJの人気が高まるにつれ、そのための音楽が作られていきます。DJがミックスしやすいよう、リズムは四つ打ちに、テンポもだいたい同じくらいで、その頃普及し始めたドラムマシンやシンセサイザーといった電子音を取り入れた楽曲が作られ、それらが総じてディスコ音楽と呼ばれるようになります。誰が聴いても体が動いてしまうディスコ音楽は、ゲイ・シーンを飛び出し、70年代にかけてアメリカ全土に広がり、そしてやがて世界を席巻します。ラジオはこぞってディスコを電波に乗せ、レコード会社も主流のポップ・バンドも一斉にディスコ調の楽曲を量産するようになります。
同じ頃、シカゴでは74年にDen Oneという大型ゲイ・ディスコがオープンし、ロン・ハーディーというDJがレジデントとなりました。77年にはそこにもうひとつWarehouseというクラブが出来、ニューヨークのゲイ・クラブで活躍していたフランキー・ナックルズというディスコDJがレジデントとして招かれて来たのです。定員600人ほどの規模だったというWarehouseも、その客のほとんどが黒人だったといいます。そのお客さんの多くが、ここを「教会」と呼んだそうです。ここもまた、彼らが魂を浄化し、日々の生活への活力を得られるような、特別な場所でした。
そして79年、ひとつの転機となる出来事がシカゴで起こります。ディスコ・デモリッション・ナイトです。ディスコが象徴していた楽天主義、快楽主義、博愛主義、そしてそれが根ざしていた黒人音楽とゲイ・カルチャーに対し、隅に追いやられてしまっていたアメリカの保守的な音楽関係者や教育者などが反撃に出たのです。地元の野球チーム、ホワイト・ソックスの本拠地であるコミスキー・パーク・スタジアムで地元のロック系ラジオ局のDJらの呼びかけにより、観客が持ち寄ったディスコのレコードを一斉に燃やすという異例の抗議イベントでした。
1979 Disco Demolition Night, Local News Coverage
「Disco Sucks」、「Kill Disco」といったスローガンを掲げた大衆の憎悪によって愛と喜びの音楽が攻撃されるという、ショッキングな瞬間でした。アンチ・ディスコ運動はシカゴに限ったことではなく、80年代に入るとアメリカ全土で徐々にディスコの人気は衰えていきます。しかしながら、人々は踊ることを止めた訳ではありませんでした。世間一般の「ディスコ」への関心は薄れ、ややダサいものと思われるようになりましたが、実際にクラブでかかる曲もそんなに変わったわけではありません。つまり、ハウスはあくまでディスコの延長なのです。シカゴのアンダーグラウンド・シーンで人気を博していたナックルズが、Warehouseでプレイしていた音楽が「ハウス・ミュージック」と呼ばれるようになったというのが通説となっています。実際には、誰がいつそう呼び始めたのかは不明ですが、当時シカゴのDJ御用達だったレコード屋では、ナックルズのプレイしたレコードを「House」というカテゴリーの棚に入れて販売していたと当時店員だったチップ・Eは各所で証言しています。
シカゴにおいてこのようなダンス・ミュージックが特に黒人コミュニティで広く浸透していった背景には、クラブDJだけでなくラジオDJの影響があります。地元のラジオ局WBMXは、81年にホット・ミックス・5というDJチームを組織し、土曜の夜に彼らによるミックス・ショウを放送し始めたのです。これがクラブにはまだ入れなかったキッズや郊外の住人なんかからも爆発的な人気を集め、WBMXをシカゴで一番の聴取率を誇るラジオ局に押し上げたとか。このメンバーに入っていたのがファーリー・”ジャックマスター”・ファンクやラルフィ・ロザリオでした。
Farley ‘Jackmaster’ Funk – Love Can’t Turn Around
82年、フランキー・ナックルズは市内に自身のクラブPower Plantをオープンさせることになり、Warehouseを去ります。その後継人としてオーナーから呼び戻されたのが、しばらくシカゴを離れていたロン・ハーディー。Warehouseはロケーションを変え、レジデントを変え、Music Box(もしくはMuzik Boxとも表記される)として営業を開始します。そしてロン・ハーディーの復帰はシカゴのダンサーたちに熱狂的に歓迎されました。ソウルフルでスムーズなフランキーに対し、ロンはより激しくテンポも速く、イタロ・ディスコやニューウェーヴなど風変わりなサウンドを取り込むスタイルで、イコライジングも極端。でもそのエキセントリックかつエネルギッシュなプレイがハウス・ヘッズを虜にしました。
そして80年代の後半になると、クラブDJもラジオDJも他と差をつけるためにオープンリールのテープやドラムマシンといったシンプルな機材でどんどん自らのエディットやトラックを作って、プレイに使用するようになります。また、それに感化された地元のハウス好きの若者たちも、自宅でトラック制作を開始。特に安価で手に入れやすかった日本製のRoland社のドラムマシンTR-707、808、909と、ベース・シンセTB-303がそのサウンドの根幹を担ったというのが、日本人にとっては興味深いですネ。ラリー・ハード(ミスター・フィンガーズ)、ジェイミー・プリンシブル、ジェシー・サンダース、マーシャル・ジェファーソン、アドニス、フューチャー、DJピエール、スティーヴ・”シルク“・ハーリー、リル・ルイスといったハウス・トラックスの作り手たちが台頭し、シカゴのハウス・サウンドを確立していったのです。
Phuture – Acid Tracks
大雑把に言って、この頃に生み出されたビキビキ、ウニョウニョしている機械的でアグレッシブな曲調のものを「アシッド・ハウス」、よりメロディアスで柔らかく、滑らかなサウンドを「ディープ・ハウス」と呼びます。ロン・ハーディーとフランキー・ナックルズの二人とも地元の新しい音楽を積極的にプレイに取り入れましたが、前者はよりアシッド・ハウスに傾倒し、後者はディープ・ハウスに傾倒していったと言っていいでしょう。そしてまた、ニューヨークでいち早くこのシカゴ産のハウス・ミュージックをプレイしたDJはラリー・レヴァンであったわけです。
Mr Fingers – Can You Feel It
さて、ハウス・ミュージックのフィーリング、感じてもらえたでしょうか?第一回目からすっかり長くなってしまったのでこの辺にしておきましょう。本場であるアメリカにおけるルーツと始まりを知ってもらったので、次回は大西洋を渡ったヨーロッパではどんなことになっていたのか、辿ってみたいと思います。お楽しみに!