ボクシング、スポーツ、薬物、ドラック、汚職、賄賂、逮捕
(左から)マーク・ガスティノー、リック・パーカー、ティム・アンダーソン。PHOTOS VIA SHARP PHOTOGRAPHY AND GETTY.

〈毒、賄賂、殺人……〉90年代ヘビー級ボクシング界の闇

人望の高かったプロボクサー、ティム・〈ドク〉・アンダーソンは、リング上で毒を盛られたとしてプロモーターを殺害、そして収監された。
Cathryn Virginia
illustrated by Cathryn Virginia
NO
translated by Nozomi Otaki

1992年12月3日、オクラホマシティのミリアドコンベンションセンターで開催された試合の夜。34歳のヘビー級選手ティム・〈ドク〉・アンダーソン(Tim “Doc” Anderson)は、代理のセコンドと面識はなかった。試合前に彼は紙コップに入った水を手渡されたが、その水は妙に甘かった。彼は砂糖だろうと考えた。彼はそのままリング上で試合相手のルーキー、マーク・ガスティノー(Mark Gastineau)を45分待ち続けたが、それは薬が効き始めるのに十分な時間だった。永遠のような時間が流れた。視界は歪み、光や物体は形を失った。リングの中で、彼の対戦相手は3人になり、右ストレートパンチも分裂した。

アンダーソンは彼という人間を形づくる純然たる決意で、なんとか持ち堪えた。熟練の選手として10年近くプロボクシング界で活躍し、安定した未来を夢見ながら、わずかな給料でジョージ・フォアマン(George Foreman)やラリー・ホームズ(Larry Holmes)などと戦ってきた。しかし、対戦相手のキャリアを統括する男にとって、この試合はアンダーソンが何があっても負けなければならない試合だった。最終的に、ガスティノーに強烈な一撃を浴びたアンダーソンは床に倒れ込み、ダウンした。観客は笑みを浮かべた。アンダーソンは地面に伏せっていた。

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アンダーソンは幼い頃からアスリートを目指していた。金髪で、ハンサムで、気立ての優しい彼は、1958年にシカゴで生まれた。野球で頭角を表すも、高校時代に利き腕の肘を手術したことで、彼の速球はかつてのスピードを失ってしまう。その代わりに、静止したり、沈んだり、回転したりする多種多様な変化球をマスターした。

その後はクローン病を患い、禁欲的な生活を強いられた。腸の炎症を抑えるために特別な食事を維持し、何もかもを正しい方法で行わなければならなかった。彼の妹のエリン(Erin)は、16歳のときに交通事故で四肢麻痺になった。彼は妹の保護者でもあったのだ。

アンダーソンは大学卒業後シカゴ・カブスと契約するが、リグレー・フィールドでプレーするという夢は、サウスフロリダのAチームでピッチングの限界に直面したことをきっかけに色褪せていった。オフシーズンには他のことにも取り組んだ。キネシオロジーの学位を取得した後は、〈ドク〉というあだ名をつけられた。生活のためにハランデール・ビーチのAgora Ballroomで警備員として働き、そこでジム・マーフィー(Jim Murphy)と出会う。彼は離婚の手続き中で、ルームメイトを探していた。アンダーソンは彼の部屋に引っ越した。ふたりは親友になった。

アンダーソンは高校時代からアマチュアボクサーとして定期的に試合に出場し、誰もが憧れるゴールデングローブの大会で3度優勝を果たした。しかし、カブスは彼が試合に出ていることを知ると、野球とボクシングのどちらを取るか選択を迫った。彼はボクシングを選び、1983年にプロに転向した。

それから数年、アンダーソンはクルーザー級選手として活躍し、着実に勝利を重ねていった。20代後半で、彼は人生を変える男に出会う。それは2歳年上の早口なリック・〈エルヴィス〉・パーカー(Rick “Elvis” Parker)だ。彼はボクシングでしか発散できない野心を持て余す男で、のちにジャーナリストのジャック・ニューフィールド(Jack Newfield)は彼を「ボクシングとプロレスリングをつなぐミッシングリンク」と称している。ミズーリ出身のパーカーは、赤毛のかつらをかぶり、ヒゲを生やしていた。彼はかなりの肥満体型で、やや舌足らずな甲高い南部アクセントを使った。エルヴィス・プレスリーの大ファンで、この〈キング〉の口調を真似し、エルヴィス風の色つきのサングラスを愛用していた。

パーカーは洗剤の販売で財を成し、その収益でロックコンサートのプロモーターを目指す。しかし、彼の野望はそこで終わらなかった。アンダーソンに会う少し前、彼は飛行機の中で偶然ボクシングのプロモーター、ドン・キング(Don King)と出会う。冷酷なビジネス手腕と〈オンリー・イン・アメリカ〉のキャッチフレーズで知られるキングは、〈偉大なる白人の希望〉さえ発掘することができれば、ボクシングはがっぽり儲かる商売だとパーカーに伝えた。

共通の友人がパーカーをアンダーソンに紹介したことをきっかけに、ふたりは食事に出かけた。巨体と小さな目が特徴的なパーカーは、小綺麗なブルーのボンバージャケットを着こなし、リムジンで店の前に乗りつけた。アンダーソンはスウェットスーツを着たことを覚えている。パーカーはチャーミングで、アンダーソンに言わせれば「けばけばしかった」。アンダーソンは完璧な〈偉大なる白人の希望〉というわけではなかったが、彼はパーカーの選手探しを手伝い、人を紹介すると約束した。その見返りとして、パーカーはアンダーソンのプロモーターを引き受けた。ふたりは対等なパートナーとなり、収益は全額折半することを決めた。

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アンダーソンは、選手を搾取し破滅に追い込む時代遅れの風土がはびこる、規制が不十分なボクシングの世界に飛び込んだ。この競技の暗部は彼を極端な暴力と依存症にさらし、最終的には殺人罪でフロリダの刑務所へ送り込むことになる。


プロモーターとして認められたパーカーは、ヘビー級に足跡を残すことを望んでいた。彼はジョージ・フォアマンにチャンスを見出した。フォアマンはリングでの臨死体験と精神の覚醒によって、10年前に引退し、牧師に転身していた。38歳になった彼にとって、ジョー・フレージャー(Joe Frazier)を叩きのめし、〈キンシャサの奇跡〉で戦ったことは遠い過去となり、周囲を震え上がらせるような体格も失っていた。しかし、フォアマンは選手に復帰し、青少年センターの資金を集め、まだ自分はパンチを繰り出せるということ、そして年齢はただの数字にすぎないことを証明するためにリングに戻ってきた。ボクシング界の大部分は彼の復活を冷遇したが、パーカーは違った。

彼はフォアマンのプロモーターを買って出て、格下の相手との試合を取り付けた。最終的に、ハリウッド俳優に転身したタフなヘビー級挑戦者ランドール・〈テックス〉・コッブ(Randall “Tex” Cobb)の前座として全国を回っていたアンダーソンに矛先が向いた。アンダーソンとフォアマンは、1987年11月21日にオーランドで対戦することになった。この試合は全国でテレビ放送された。 

試合の準備期間、アンダーソンの腸は全く正常に機能していなかった。何を食べても消化されなかったのだ。試合の夜、243ポンド(約110キロ)のフォアマンに対し、彼はたったの210ポンド(約95キロ)しかなかった。アンダーソンはREOスピードワゴンの「Ridin' the Storm Out」を入場曲に、〈Beverly Hills Knockouts〉を引き連れてリングに向かった。地元の新聞は「ナイトクラブでボクシングするセクシーな遊び仲間の集まり」と書き立て、騒がしいエディ・グラハム・スポーツ・コンプレックスに集まった観客たちは野次と歓声を浴びせた。その後に明らかに体格の大きい、不吉な黒のローブをまとったフォアマンが入場した。レイ・チャールズの「America the Beautiful」のカバーが会場に響いた。

「ジョー・フレージャーからも、あれほどの攻撃は受けなかったよ」──ジョージ・フォアマンのティム・アンダーソンについての証言

試合ではフォアマンが終始主導権を握り、アンダーソンを二度ノックダウンした後、第4ラウンドではノックアウトを奪った。それでもアンダーソンは立ち上がり続け、敬意を勝ち取った。フォアマンも彼の勇気を称えた。試合後に抱き合ったとき、アンダーソンはフォアマンにスパーリングパートナーを頼まれたことを覚えている。「ジョー・フレージャーからも、あれほどの攻撃は受けなかったよ」とフォアマンは『タンパ・トリビューン』紙に語った。

1989年には、フォアマンの復帰は単なる教会の募金活動以上のものになり、彼はパーカーの元を去って、ドン・キングの長年の宿敵であるボブ・アラム(Bob Arum)と組んだ。自尊心を傷つけられたパーカーは、1991年にチャンピオンのイベンダー・ホリフィールドをノックアウト寸前にまで追い込んだ〈スモーキン〉・バート・クーパー(“Smokin” Bert Cooper)のプロモーションに情熱を傾ける。パーカーがヘビー級の掌握に最も近づいた瞬間だった。

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しかし、試合の勝敗にかかわらず、ホテルは毎晩お祭り騒ぎだった。パーカーはどこからともなくキーボードを取り出し、かつらとCAZALのメガネをかけて、エルヴィスをはじめとする彼の十八番を歌ったものだった。「コカイン、クラウンローヤル、それからニール・ダイアモンドだ」と彼のボディガードのジャック・ソロウェイ(Jack Solloway)は回想する。「ニール・ダイアモンドに文句はないよ。でも毎晩同じニール・ダイアモンドの5曲を5回ずつ聴かされるとしたら? ちょっとげんなりするだろ」


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Photos via Getty Images

アンダーソンは、パーカーとビジネスパートナーになってしばらくは友人として接していた。しかし、パーカーの薬物使用にうんざりし、それが彼の意思決定に壊滅的な影響を与えていると考えた。「一度やり始めると、彼は夢中になった」とアンダーソンはいう。「その後はもうめちゃくちゃで、状況は悪化するばかりだった」。パーカーの試合では50/50のパートナーになると約束したのに、アンダーソンいわく、パーカーが支払ったのはファイトマネーだけで、残りは「保管」のために差し引かれたという。「俺は彼を信じた。なぜかわからないが、信じていたんだ」とアンダーソンはいう。

彼が困惑した出来事はそれだけではなかった。アンダーソンと他の目撃者の証言によれば、パーカーはロサンゼルスのホテルの駐車場で、人だかりの前で彼にある青年を殴るように命令したという。アンダーソンがそれを拒むと、パーカーの別の部下がライフルを持って現れ、その青年に口を開けさせて「それを口に突っ込んだ」とアンダーソンはいう。青年は地面に倒れ、口からは血が溢れ出た。

また、アンダーソンがフォートマイヤーズ高校で麻薬撲滅を目的とする〈Just Say No(ただノーと言おう)〉キャンペーンのスピーチを行なった時のこと。パーカーのリムジンが到着したとき、アンダーソンは彼の息がコカイン臭を放っていることに気づいた。アンダーソンはスピーチを終えると、パーカーにもう一緒に仕事はしないと告げた。

「お前はこの試合に負ける、と彼はいった。その時ようやく彼らが何の話をしているのかわかったんだ」──ティム・アンダーソン

しかし、彼は引き下がらなかった。パーカーは契約を盾に、11年前にフォアマンを破るもその頃には落ち目になっていた39歳のジミー・ヤング(Jimmy Young)との試合を取り付けた。映画『レッド・スコルピオン』でドルフ・ラングレンのスタントを務めたために髪をブリーチしていたアンダーソンは、「絶え間ないプレッシャー」を受けながら、フォートマイヤーズでヤング相手に判定勝ちを収めた。彼のキャリア史上最高の勝利だった。

1988年8月、パーカーは南アフリカのダーバンで、ヘビー級挑戦者ピエール・クッツァーとの試合を取り付ける。アンダーソンはスパーリングを一切できず、パーカーの約束とは異なり、トレーナーも来ることはなかった。試合の夜、彼がロッカールームでシャドーボクシングをしていると、ふたりの警官が入ってきた。「お前はこの試合に負けるんだ」とひとりの警官がいい、ライフルの床尾で彼の顔を殴りつけた。彼の鼻は折れ、床に倒れ込んだ。その男はアンダーソンの頭に銃を突きつけた。「お前はこの試合に負ける、と彼はいった」とアンダーソンは回想する。「その時ようやく彼らが何の話をしているのかわかったんだ」(クッツァーはコメントを差し控えた。)

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彼らはアンダーソンをリングへ移動させた。クッツァーは第2ラウンドで彼の鼻を殴りつけてダウンを奪い、試合は中断した。アンダーソンはマイクでクッツァーの攻撃はフォアマンより強烈だと語り、彼の用心棒たちを宥めようとした。

しかし、そうはならなかった。アンダーソンによれば、警官たちは彼に目隠しと手錠をかけて飛行機──彼の予想では大きな騒音を立てる小型機──にのせ、横たわらせた。一体どうなってしまうのかと恐怖に駆られた彼は、自分の下で落とし戸が開き、海のサメが後処理をしてくれる様子を思い浮かべた。しかし、彼らは何事もなく着陸し、彼を窓のない部屋に連れていった。夜が明けると彼は車で空港に連れていかれ、1万ドル(当時のレートで約128万円)を手渡された。彼は米国へ戻る飛行機に搭乗した。

アンダーソンは、パーカーとの契約について弁護士に相談した。彼はそれを見てひどい内容だと述べた。次にパーカーに会ったとき、アンダーソンは契約を終わらせたいということ、裁判も辞さない考えだということをもう一度伝えた。南アフリカで起きたことを話し、「とんでもないことばかりだ」と、二度と彼のために試合はしないと伝えた。

「まあまあドク、この逆境をうまく利用しようじゃないか」。アンダーソンはパーカーがかつての愛嬌を振りまきながらそう言ったのを覚えている。パーカーは彼の肩に手を回したが、彼は一発で気絶させてやるぞと警告した。


翌年、彼らはついに決別したが、アンダーソンには厳しい現実が待ち受けていた。経済的に困窮した彼は、再び親友マーフィーのもとに戻る。彼らの見立てでは、パーカーはアンダーソンに17万3000ドル(約2390万円)の借りがあるということだった。彼と妹の将来を保証するには十分な額だ。アンダーソンはそれを必ず手に入れると心に誓った。

その頃、パーカーはようやく彼の〈偉大なる白人の希望〉であるマーク・ガスティノーを発掘した。アメフトチーム、ニューヨーク・ジェッツのディフェンスラインの要であった巨体のガスティノーは、しばしば場外での馬鹿げた行動──シルベスター・スタローンの元妻で女優のブリジット・ニールセンとの断続的なロマンス──でニュースを賑わせていた。ガスティノーがパーカーと手を組んだ1991年には、彼のアメフト選手としての可能性は潰えたも同然だった(なお、ガスティノーからコメントは得られなかった)。

パーカーは、当時のジョージ・フォアマンのマネージャー、ロン・ウェザーズ(Ron Weathers)と、ガスティノーが12-0で勝てばこの元チャンピオンと試合できるという非公式の合意に達したと発表した。ウェザーズはこれをきっぱりと否定した。「完全なデタラメです」と彼は一蹴した。「1000年経ったとしてもガスティノーとフォアマンは戦わせられませんよ。彼はひどかったから」。当時のガスティノーは、アマプロ問わずボクシングの試合経験は皆無だった。そこで合意の有無にかかわらず、パーカーは数々の冗談のような対戦相手をでっち上げ、なかには数人が『マイアミ・ヘラルド』紙や『スポーツ・イラストレイテッド』誌に暴露したように、八百長を持ちかけられた選手もいた。

それから間もなく、ガスティノーは9-0の戦績を達成した。パーカーはUSAネットワークの番組『Tuesday Night Fights』で中継されるサンフランシスコでの試合を取り付けたが、まだ対戦相手は見つかっていなかった。彼が求めていたのは、記録を持つもっともらしい選手で、ガスティノーの偉大さを証明する正真正銘のボクサーだ。そこでアンダーソンに白羽の矢が立った。

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アンダーソンがそれまでに一試合で稼いだ最高額は1万ドルだった。アンダーソンによれば、パーカーは勝敗にかかわらず、17万3000ドルに利子を上乗せして払うと約束したという。マーフィーは断るべきだと主張したが、アンダーソンは勝利を確信していた。

試合の直前の土曜日、パーカーは彼の部屋にやって来た。アンダーソンいわく、パーカーは紙幣がぎっしり詰まったブリーフケースを開き、「このケースには50万ドル入っている。もし君が第1ラウンドか第2ラウンドでマーク・ガスティノーに倒されてくれるなら、これは全部君のものだ」と告げた。アンダーソンは八百長試合をやることになるなら受け入れられない、と断った。

それにもかかわらず、その数日後、パーカーはガスティノーを引き連れて再びアンダーソンのもとを訪れ、彼がどのようにノックアウトされるかをシミュレーションした。「ずっと迷ってるんだろ」とパーカーはいい、オファーはまだ有効であることを示した。アンダーソンはガスティノーを見つめ、こう告げた。「明日の夜ぶっ飛ばしてやるよ」。パーカーは言葉を失った。

試合の夜、アンダーソンは金の縁取りのベビーブルーのトランクスを身につけた。ガスティノーは一晩中ガールフレンドと言い争っていたせいでユニフォームを忘れたので、短くカットしたスウェットパンツを履いていた。パーカーはリングサイドに着席した。序盤のラウンドでは、ガスティノーはたくましい筋肉と神経過敏のせいか、どこかぎこちなく見えた。彼は口を開けたまま戦っていた。アンダーソンは蛇使いのように、彼を意のままに操った。彼はガスティノーに顎の強さを試してみろと身振りで合図したが、ガスティノーにそんな余裕はなかった。第4ラウンドで、宙を見つめたガスティノーの顔をコーナーでの左フックが襲い──「ガスティノーは何を見ているんだ?」とコメンテーターは尋ねた──彼はマットに倒れ込んだ。そこでラウンド終了のゴングが響き、彼はノックアウトを免れた。

ガスティノーのセコンドが最終ラウンドに向けて彼の目を覚まそうとしたとき、コメンテーターが「ショック療法」と称する出来事が起きた。パーカーがリングエプロンに手を叩きつけ、「頭を引きちぎってやれ! 止まるな! そいつをぶちのめせ! 俺は本気だぞ!」と叫んだのだ。ガスティノーはすぐさま「黙れ!」と命令した。彼は第5ラウンドでさらによろめき、最後のゴングが鳴り響いた。アンダーソンは勝ち誇って腕を突き上げ、グローブをはめた拳でカメラを叩くと、子犬のような笑みを浮かべた。観客は立ち上がって歓声を送った。

第5ラウンド後のインタビューで、ガスティノーはリングの階段に座り、またガールフレンドを探さなきゃいけない、でもボクシングを諦めたわけではない、と語った。その背後でパーカーは聞き耳を立てながら、次の策略を練っていた。


パーカーの義理の姉妹ダイアン・マクベイ(Diane McVay)によれば、パーカーはガスティノーが再戦でアンダーソンを打ち負かせば、フォアマン・ガスティノー戦はまだ実現可能かもしれないと信じていたという。彼は自分なりのアプローチを画策し、大きな賭けに出た。そして、それを物にしてみせた。

「やあドク、君にガスティノーを打ち負かしてほしいんだ」。アンダーソンはパーカーから電話でそう告げられたのを覚えている。パーカーはガスティノーが金がかかり過ぎる──ひと試合につき5000ドル(約70万円)──うえ、彼の生活費も全て払っていると明かした。契約では、ガスティノーが二度敗北したら、生活費を払わなくてよくなると決めたという。パーカーは先の試合の報酬を約束の17万3000ドルどころか数千ドルしか払っていなかったが、今度こそ全額支払うと約束した。

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アンダーソンはマーフィーとその父親のジョージと一緒にじっくり考え抜いた。彼らは懐疑的だった。「不正の臭いがプンプンする」とマーフィーは彼にいった。しかし、アンダーソンは金が必要で、パーカーならそれを払えると語った。それに、ガスティノーに負ける気はさらさらなかった。

「どんなことがあろうと、何も飲み食いするな。そいつらの仲間とつるむな」とマーフィーは彼に釘を刺した。

「どんなことがあろうと、何も飲み食いするな。そいつらの仲間とつるむな」──ジム・マーフィー

再戦は猛吹雪のオクラホマシティで行なわれた。テレビ放映はされなかった。フロリダと違い、オクラホマはボクシングの放映権がなかった。つまり、好奇の視線が届かない、いつか忘れ去られるイベントにぴったりの場所というわけだ。アンダーソンは風邪をひいた。パーカーはトレーナーがカナダから来るといったが、またしてもそんな人物は現れなかった。アンダーソンはひとりでトレーニングに打ち込んだ。最初の試合のときよりもコンディションは良かった。過酷な天候に屈せず会場に集まったファンは、200人そこそこだった。

試合はわずか1時間で決着がついた。アンダーソンは第6ラウンドでついにノックアウトされた。彼は更衣室のテーブルに寝かされ、吐き続けていた。リングサイドドクターのチャムリー医師(Doc Chumley)は、吐き気や嘔吐を抑えるコンパジンを注射した。最終的には誰もいなくなった。用務員が午前3時にアンダーソンを発見した。「彼が救急車を呼んでくれた」とアンダーソンは感謝の念を込めて語る。「まさに命の恩人だ」

ふたりの男がリングに立ち、そのうちのひとりが打ちのめされる──。ボクシングの世界では語り尽くされた物語だ。しかし、あの日実際に何が起きたかを知る者はほとんどいない。アンダーソンは──正体はわからないが──自分が毒を盛られたと信じている。そしてその考えが、彼を人生を大きく変える探求の旅へと誘うことになる。


その後の数ヶ月、彼は無気力、嘔吐、半分以上不明瞭なオクラホマの断片的な記憶に苛まれ続けた。アンダーソンのガールフレンドのスーザン・スカリー(Susan Scully)とマーフィーが彼を空港に迎えに来た。マーフィーの自宅に戻ると、アンダーソンは足を引きずり、立ちくらみを起こし、嘔吐し、ベッドに入った。マーフィーは寝たきりで奈落の底へ落ちたようなアンダーソンを複数の医者に見せたが、全員毒を疑った。7人目の医者がようやく目まいと診断し、軽い運動をすれば少し楽になるかもしれないと述べた。

アンダーソンは1年間働くことができなかった。結局、彼はストリップクラブ〈Pure Platinum〉のセクシーなボクサーたちのパーソナルトレーナーとコーチに就任した。わずか80キロになってしまったふらつく体を引きずりながら、彼は女性たちにひどくのろいパンチの打ち方を教えた。彼は芯まで腐ったボクシング界の暗部を暴露する本の執筆を始めた。タイトルは『Liars, Cheats, and Whores(嘘つき、いかさま、娼婦)』だ。嘘つきはプロモーター、いかさまはマネージャー、そして娼婦は選手を指している。

一方マーフィーは、大々的に報じられる見込みのない訴訟──内容が奇妙であればあるほどいい──を引き受けることで知られるマイアミの弁護士エリス・ルビン(Ellis Rubin)に連絡を取った。彼は未払金の訴訟を発表する記者会見の前に、パーカーが最初のガスティノー戦を買収しようとしていたことと再戦でアンダーソンに毒を盛ったことをメディアに明かした。「ティム・アンダーソンが望んでいるのは、あの試合の夜について語ることです」と彼は述べた。「この録音から、当時の医者は薬の使用を疑ったこと、けれど何も見つからなかったということがわかるはずです」

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ルビンはCBSの『60 Minutes』でのインタビュー放映に尽力した。しかし、リサーチの途中で、『60 Minutes』はパーカーの八百長の規模を目の当たりにし、番組の内容を変更した。アンダーソンに加え、番組はパーカー、フロリダのコミッショナー、ドン・ヘーゼルトン(Don Hazelton)とパーカーの元パートナー、ロブ・ラッセン(Rob Russen)を取材した。1994年4月に放送されたこのエピソードは、パーカーを中心に展開した。ヘーゼルトンはパーカーは詐欺師なのかと訊かれ、「最もすばらしい人間のひとり」と答えた。ガスティノーの最初の対戦相手であるレスラー・デリック・デューク(Wrestler Derrick Dukes)と、『Sports Illustrated』に不正を告発したソニー・バーチ(Sonny Barch)は、ノックアウトされたふりをしたことを認めた。しかし、パーカー──エルヴィス風の装いで、首には金のボクシンググローブ型のネックレス──は、強気に振る舞い、全てを否定した。

アンダーソンは自身のストーリーから除外され、番組終盤にガスティノーをノックダウンしたシーンに登場しただけで、単に「ボクシングに精通していたが八百長には関心のなかった人物」として紹介されただけだった。ルビンはアンダーソンの件を放棄した。彼は完全に勢いを失った。

その年の後半、アンダーソンがPure Platinumの駐車場を歩いていると、何かに背中を打たれ、彼は地面に倒れた。アンダーソンの記憶によれば、目出し帽をかぶった4人の男──うち2人はバットを持っていた──が彼を見下ろしていたという。そのひとりはパーカーに関わる全てのことを忘れろといい、アンダーソンの妹が幼い娘たちと一緒に玄関ポーチで遊んでいる写真を見せた。彼は再び目まいに襲われた。そして、絶望にも。


アンダーソンは完全に塞ぎ込んだ。1994年の冬、彼は毒物学者に盛られた薬の正体を突き止めなければ命が危ういと告げられた。アンダーソンは、当時2番目の家族と一緒にヒューストンに住んでいたパーカーに連絡を取らなければならなかった。彼はボクシング界から追放され、FBIから八百長に関する捜査を受けていると報道されていた。出版契約を結んだ(実際は結んでいない)ボクシングについての本を執筆中だという体で(これは本当だった)、アンダーソンはパーカーに4万5000ドル(約460万円)でインタビューを申し込んだ。パーカーは額を聞いて同意した。

マーフィーはアンダーソンに護身用の銃が必要だと考え、フォートローダーデールの近くのガンショップ〈P&D Discount Guns〉へ連れていった。銃のことは何も知らないアンダーソンは、女性向けのライターのような22口径ピストルを手に取った。マーフィーは38スペシャル弾・5連発のリボルバーを指差した。パーカーはいつものようにグロックで武装し、さらに「武装した3〜4人の用心棒」を連れてくるかもしれない、とマーフィーは予想した。

約束の数日前、アンダーソンはパーカーの義理の姉妹ダイアン・マクベイと一緒にいた。マクベイは銃のことも、自らの死を確信していたアンダーソンが妹のエリン、ガールフレンドのスカリー、そして他の家族全員宛てに今自分が抱える苦痛と彼ら彼女らへの愛を語る手紙を書き、万が一のためにそれらを聖書に挟んだことも知らなかった。彼は友人でボクシングトレーナーのスティーヴ・カントン(Steve Canton)に連絡し、真実を知るための計画を打ち明けた。

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rick parker boxing promoter murdered tim anderson

リック・パーカー。PHOTOS VIA GETTY IMAGES

1995年4月28日、マクベイはアンダーソンとパーカーの14歳の息子クリス──パーカーには2年間会っていなかった──を車に乗せ、パーカーが宿泊しているオーランドのエンバシースイーツホテルに向かった。アンダーソンは腰に銃を挟んでいた。クリスはアンダーソンがマクベイに彼を頼む、ともう自分がいなくなるかのように話したことを覚えている。彼いわくアンダーソンは「少し動揺気味」だったという。

彼らは250号室でパーカーに会った。和やかで、楽しげと言っても差し支えのない場だった。アンダーソンは、マクベイがクリスに向かって「ホテルの周りを散策して、ふたりに仕事の話をさせてあげない?」と尋ねたのを覚えている。

パーカーとアンダーソンはテーブルを挟んで座った。アンダーソンは、パーカーがズボンの下の足首につけた銃のホルスターの底に目をやった気がした。会話は続き、アンダーソンはテープレコーダーの電源を入れ、さらに話を続けた。そのテープは今はもう彼の手元にはない。それから27年が過ぎた今、アンダーソンは当時の出来事をこう振り返る。

「あの薬と毒が何だったのかを知りたい」と彼はいった。「さもないと俺は死ぬだろう」

「正確にはわからない。確かテキサスのロン・ウェザーズから買ったものだ」とパーカーは答えたという。

(VICEがこの主張についてウェザーズに尋ねると、「バカバカしい。パーカーが薬を盛ったに決まってる。別の誰かになすりつけようとしたんだろう」と彼は答えた。)

アンダーソンは銃を取り出し、パーカーに突きつけた。「リック、俺は本気だぞ」

パーカーはセールスマンモードに突入した。「一緒に医者のところに行こう。必要なものは何でも用意するよ。何が起きているのかを明らかにすれば、きっとすぐによくなるはずだ」

「リック、俺がこのせいで死にかけてるってことをわかってるのか?」

「いやいや、必要なら何でも手伝うよ」とパーカーは約束した。

アンダーソンは答えを得ることができなかった。敗北を喫した彼は再び腰を下ろすと、銃をしまった。パーカーは立ち上がり、激昂してアンダーソンを怒鳴りつけた。

「よくもそんなふうに俺に銃を向けて脅したな? お前のヘマのせいで、妹は死ぬんだ」

アンダーソンは頭が真っ白になった。気がつくと、彼はパーカーを11〜13発撃っていた。少なくとも2度弾を詰め直し、下半身──ペニスも含まれたため、のちに検察当局は「意図的に痛めつけた」と主張した──に向かって発砲していた。アンダーソンは自分のしたことが信じられなかった。ビッグ・リック・パーカーが床に倒れていた。しかし、出血はそこまで多くなかった。突然、彼は叫び出した。「お前が俺を撃つなんて! 助けてくれ!」

「わかったよ、完全に我を忘れていたんだ」とアンダーソンはいった。彼は救急車を呼び、スティーヴ・カントンに電話をかけ、そして口をきかなくなったパーカーに近づいた。

彼はパーカーの156キロの体を転がし、銃創を見た。どうすればいいかわからず、彼は銃に残った2発の弾を見つめ、「神よ、どうかお許しください」といいながら銃を口に入れ、引き金を引いた。しかし、何も起きなかった。銃弾が薬室に詰まっていたのだ。

外に出た彼は、プールで泳ぐ人びとの喧騒のなか、茂みの前に向かった。銃を地面に放り出し、もう一度拾い上げると、今度は地面を撃つことに成功した。彼は再び自分を撃とうとしたが、やはり何も起きなかった。彼はしばらく茂みの中にいた。コオロギの鳴き声が響いていた。彼は「まだお前の番ではない」という声を聞いた気がしたが、確信は持てなかった。

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彼はフロントへ歩いていき、すべてを打ち明けた。今すぐ死にたいと思った。警察が到着した。結局、パーカーの銃は見つからなかった。

人びとはパーカーが殺害されたことには驚かなかった。しかし、アンダーソンが犯人だということに衝撃を受けた。


公判は1年後にオーランドで行なわれた。アンダーソンは国選弁護人のおかげで死刑を免れたが、裁判は難航した。

アンダーソンの弁護団は、銃撃は自己防衛だと主張した。アンダーソンはパーカーに妹を殺すと脅されて理性を失い、その状態のまま無意識に彼を止めようとした、と。彼らはパーカーの脅迫が実際に何度も完遂された例を示そうとした。アンダーソンがパーカーの長年にわたる虐待に苦しめられ、パーカーが原因となった病気を治すためだけに彼に会い、脅迫されていたために銃を携帯したのだと主張した。

しかし、それは失敗に終わった。裁判は4日間かけて行なわれた。その大半はアンダーソンが引き金を引いたときの精神状態の分析に費やされたが、陪審員はパーカーの全容を把握することはできなかった。毒を盛ったという決定的証拠は存在せず、それはほぼ考慮に入れられなかった。検察側はそのような事実はないと主張した。

アンダーソンの家族はひとりも証人として呼ばれず、そもそもオーランドの法廷に足を踏み入れることも許されなかった。それは家族全員が──おそらく戦略的に──検察側の証人のリストに載せられていたからだ。「陪審員は家族からのサポートがあるかどうかを気にかけ、傍聴人のなかからそのひとの味方を探し出そうとします」とアンダーソンの弁護団のひとり、パトリシア・キャッシュマン(Patricia Cashman)は説明する。「ですからあえて家族を廊下に残し、ティムが家族の助けを得られないと見せかけたのでしょう」。別の弁護士、ビル・マクレラン(Bill McLellan)も、家族の不在──特にエリン──は極めて大きな助けになったと同意する。

計画的な犯行か否かを審議するさい、陪審員たちの意見を左右したのは、アンダーソンが銃を再装填して撃ち続けたことだ、と陪審員のひとりであるフェリシア・フィニジア(Felicia Finizia)は説明する。フェニジアは彼女と他の陪審員がコンラッド判事に書面で情状酌量を求めようとしたが、フロリダでは第1級殺人の判決には仮釈放なしの終身刑以外の選択肢が残されていないということを知らなかったという。

マクラレンは評決が読み上げられたとき、ほぼ気絶寸前だったと語る。アンダーソンはただその場に立ち尽くしていた。


フロリダの刑務所を転々とするアンダーソンのもとに、家族、マーフィー、さらにマクレランとキャッシュマンが訪れた。彼はその後何年も、この場所をすみかとすることになる。健康状態は改善した。1999年、彼は喉の悪性リンパ腫の手術を受け、声帯が傷ついてかすれた小さな声しか出なくなった。バットを振り回した悪党が原因だという不調を解決するために、首の手術も受けた。

結果的に、毒物学者の警告は間違っていたことが明らかになった。アンダーソンはいまだに自分が何を盛られたのかを知らない。

世紀の変わり目に受けた腰椎穿刺で、体内からヒ素が見つかったが、米国の刑務所の飲料水からは高濃度のヒ素が検出されている。

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アンダーソンが最も有力な賛同者に出会ったのは、まったくの偶然だった。妹のエリンにとっては、彼は悪事に手を染めるはずのない人間だった。「母は本当の彼を知っていました」と彼女の32歳の娘、ペイジ(Paige)は説明する。「彼女はそのことになんの疑いも持っていなかった。彼が受けた判決も、評決の内容も信じていませんでした」

叔父が終身刑を言い渡された当時5歳だったペイジは、10代で薬物依存症に苦しんだ。2010年のクリスマスイブにエリンが亡くなったあと、ペイジは女性のための非営利の更生施設を運営するフランク(Frank)とサブリナ・スウィーニー(Sabrina Sweeney)夫妻のもとに引っ越した。夫婦はのちに彼女を養子にした。スウィーニー夫妻は「いつでも隣人に手を差し伸べる、とても寛大なひとたち」だとペイジは語る。

彼女は自分が生まれてからずっと刑務所にいる親切な叔父と、彼の身に起きたことについて、夫妻に打ち明けた。腑に落ちない話だったので、スウィーニー夫妻は行動を起こすことにした。フランクは地元の政界と関わりがあったため、タラハシーにあるフロリダ州会議事堂に行き、リック・スコット州知事を含む、最多得票で当選したフロリダ州議員たちに連絡を取った。

「私たちは、こういうことの仕組みを何もわかっていませんでした。何度も壁にぶつかりましたが、諦めずに挑戦を続け、お金もたくさん使いました」とフランクは笑う。「ですが、今のところ何の成果も得られていません」。スウィーニー夫妻を突き動かした動機のひとつは、アンダーソンがパーカーを殺害することでペイジを救ったという考えだった。「私たちはペイジを愛しています」と彼はいう。「だから彼には恩義があるんです」

2020年はじめ、スウィーニー夫妻は州会議事堂の建物のなかで迷い、上院議員との約束に遅刻してしまった。ジョシュ・バーケット(Josh Burkett)という若いロビイストがふたりを見かけて声をかけ、約束の場所へ案内したが、議員はすでに席を離れていた。サブリナがいつものようにアンダーソンの話をバーケットに伝え、彼は夫妻に名刺を手渡した。

2020年6月1日、サブリナは突然この世を去った。フランクは妻が熱心に働きかけていたアンダーソンの件を諦められず、恩赦によってアンダーソンを釈放してもらうためにバーケットを雇った。「ジョシュはすばらしいひとです。5年前に出会っていたら、と思わずにはいられません。そうすればティムは今ごろ自由の身だったでしょう」

バーケットによれば、アンダーソンの件は今後、〈Office of Executive Clemency(行政恩赦局)〉の傘下にある〈Florida Commission on Offender Review(フロリダ州犯罪者再調査委員会)〉で調査される予定だという。その決定権を握るのは、フロリダ州知事と3人の閣僚だ。恩赦委員会は年に4回開催される。フロリダにおける未決定の恩赦の嘆願は数千件にのぼるとバーケットはいうが、アンダーソンの件を迅速に進めるつもりだそうだ。ちなみに第1級殺人が減刑されたいちばん最近の例は2015年だ。

バーケットは、アンダーソンの出所は「1000%期待薄」だと釘を刺した。


タンパから車で40分のザファーヒルズは、退職後の高齢者が多く暮らす、古風な趣のある田舎町だ。町の南端から約1.6キロほど走ったところに、ティム・アンダーソンが2018年から暮らしている刑務所がある。塀のなかには低い赤褐色の建物が入り組んで立ち並び、このような造りの施設は近年国内で急増している。

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ここはフロリダで最も望ましい刑務所と呼ばれている。収容者はやや年配で、大半はハードコアな犯罪者ではないため、比較的安全だ。それでも、アンダーソンの親友のひとりであるチャック(Chuck)は、2022年9月に独房で殺害された。「彼は本当にいいヤツだった。あんな仕打ちを受けるいわれはない」と彼は語る。

アンダーソンは2018年からずっと、世界的なキリスト教系の刑務所省カイロスのプログラムでボランティア活動に参加している。カイロスの外部ボランティア、ブラッド・ランプ(Brad Rampt)は、アンダーソンを「構内のオールスター選手のひとり」と呼ぶ。

「彼はボクサーで、ガスティノーと戦った男です」とランプはいう。「刑務官たちにもサインを求められるほどです。まるで王族みたいな扱いを受けていますよ。それに彼は非常に模範的な受刑者なんです。ですが、今の彼はとても繊細でスピリチュアルな人物です。構内のスピリチュアルな指導者のひとりでもあります。みんな彼にカウンセリングやアドバイスなどを求めるんです」

アンダーソンは、時に将来のことを考え、外の世界での出来事に思いを馳せる。フォアマンのように、子どもたちに神について教えるボクシングジムを開こうと考えたこともある。それから父親のジョージ(彼の家族は2021年にジョージが亡くなる前までにアンダーソンが出所することを切望していた)、彼が18歳のときに亡くなった愛する母ジャクリン、そしてエリンのことも。大抵はエリンの孫にいい影響を与える存在でありたいと考えている。

また、フォアマンのように、もう一度リングに上がることも考えている──「年齢はただの数字」だと証明するために。彼は現在64歳だが、筋骨隆々の64歳だ。週5日のワークアウトを欠かさず、腕立て伏せや腹筋を何百回も行なっている。青年期の病気も治り、今までになく体調がいいという。

インタビューを始める前、アンダーソンは20年間ほとんどパーカーのことを考えていないと語った。かつては事の発端を解き明かそうと躍起になったこともあった。あのかつら、サングラス、ボクシングについて早口でまくし立てるパーカーの口調を思い浮かべた。

ただ、今重要なのは今後のことであり、彼自身の意志ではどうにもならないことだ。恩赦の時は、仮に実現するとしても、いつ訪れるのか誰にも見当もつかない。「万が一その時が訪れるとしたら、その準備はできている」と彼はいう。


アンダーソンの件に共感した方は、恩赦委員会で検討されるよう、フロリダ州のロン・デサンティス知事(GovernorRon.Desantis@eog.myflorida.com)まで連絡を。

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