1992年4月29日午後、怒りに身を任せて我を忘れた300人以上のデモ隊が、ベンチュラ郡の庁舎前に集まった。そのわずか1時間前、黒人のタクシー運転手ロドニー・キング (Rodney King) に、残忍な暴行を加えたロサンゼルス市警の4人の警官(3人は白人、1人はメキシコ系アメリカ人)の一部始終がビデオに収められていたにもかかわらず、無罪判決を受けたのだ。足で蹴ったり、警棒で56回殴るなど、暴行は15分ほど続いたと報じられており、キングは頭蓋骨などを骨折し、歯が折れ、さらに脳にも後遺症が残った。証拠映像があるなかでの無罪判決は、現地のコミュニティーにおいて長年続いていた人種間の緊張状態を刺激した。その結果、ロサンゼルス暴動が起きた。激しいデモや略奪行為が広がり、州兵までが配置された6日間の暴動では、50人以上が死亡、1万人が逮捕され、10億ドル以上の器物損壊被害が生じた。
イースト・ロサンゼルス大学の2人の学生、エイブラハム・トーレス (Abraham Torres) と友人のジョン・トーレス (John Torres) (血縁関係はない)は、何時間も語り合い、判決後の解説に耳を傾けた。最終的に、ジャーナリズムを専攻していたトーレスは、カメラとレンズとフラッシュを手にして、デモへの参加を決意した。彼がとらえた、ショットガンを振りかざした消防士や炎に包まれた店、ほとんど人のいない夜の街角のイメージは、世界の終末を描いた映画のワンシーンのようだった。
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VICELANDで配信した「Black Trademarked Photo Editing Software History」にインスパイアされたトーレスは、いまだ解決されない米国における人種問題への警告として、人々の関心を集め続けるロサンゼルス暴動の経緯を解明する手伝いをしてほしい、と私に連絡をくれた。彼の写真は、今回、初公開となる。
僕たちは、その一部始終をAMラジオで聴いていました。イースト・ロサンゼルスでは、まさか暴動になるとは誰も思っていなかったはずです。そこまで大ごとになるとは考えていませんでした。ロサンゼルス市警の前でデモが行われていたので、現場でに行って僕らも抗議に加わろう、という話になりました。到着したのが、21時か22時で、車の破片や燃え尽きたものなどは残っていましたが、すでに誰もいませんでした。現場に到着する前に外出禁止令が出ていたことを、そのときは知らなかったのです。僕らは思い切ってダウンタウンからサウス・ロサンゼルスまで足を運ぶことにしました。サウス・ロサンゼルスに着くと、燃えあがる炎を写真に収め始めました。同時に夜の街角で、キッズの集団に襲われそうになりました。そして彼らをまいた後も、僕たちは撮影を続けました。略奪の被害に遭ったスーパーマーケットに行き、燃え尽きた建物の写真を撮りました。おそらく僕は、初日の夜に外出した数少ないカメラマンのひとりでした。
非現実的に感じました。あの体験全体が非現実的でした。LAは人口1000万人の都市ですが、その夜は、炎が上がり、消防士と僕、そして数人のみしか現場にいませんでした。誰もいない街の真ん中で、燃えあがる炎を見た記憶などありますか? だから、僕の写真には誰も写っていません。あれがあの体験の始まりでした。ロサンゼルス郡が突然、ワイルド・ワイルド・ウェスト(開拓時代の西部のよう)になったのです。何でもありで、好き勝手に暴れて良いという状態で、略奪が始まったのでしょう。好き放題やっても止める人がいない、と気づいたとき、ドカーン、と第2段階の大きな暴動が起きました。第1段階は怒りで、燃やせ、燃やし尽くせ、燃やしてしまえ、という状況。第2段階は、略奪しよう、この現状から何かを盗み手に入れよう、といった状況でした。まさか加害者が無罪になるはずもないとは思わない、クソみたいな判決が、常に頭にありました。判決が正当に下されないなら、別の方法で知らしめてやろう、という考え方です。どうせなら、自分で何とかしてやろう、と。あと2、3日は警官たちが来ないとわかっていました。
イースト・ロサンゼルスは、基本的にはメキシコ系アメリカ人、ラティーノが暮らす地域です。1900年代初期はユダヤ系のコミュニティーでした。それがメキシコ系アメリカ人、アジア系、日系アメリカ人のコミュニティーに変化していきました。そういう点では、当時起きていた出来事と関連してましたが、サウス・ロサンゼルスほどではありませんでした。ニューヨークにもマイノリティーが多く住む区があるように、LAにも白人とは異なる人々が住む地区があったのです。