ニュージーランドのパンク〜インディペンデント・シーンといえば、FLYING NUN RECORDSから作品をリリースしていたダニーデンのバンドが有名であるが、首都ウェリントンにも確固たるシーンが存在していた。その中心にいたのがVIETNAM。活動期間こそ短かったものの、ニュージーランドを代表する伝説のポストパンクバンドであった。
地元のパブをまわってライブを重ねたバンドは、ニュージーランド国内の〈バンドバトル選手権〉に出場。トロントのニュー・ウェイヴ・バンド、MARTHA AND THE MUFFINSの「Echo Beach」のカバーを含むセットを披露して賞賛を得たが、もう一歩のところで〈産業ロック〉バンドに敗れた。しかし、そのときの審査員のひとりで、テレビ番組『Radio With Pictures』の司会者だったカリン・ヘイ(Karyn Hay)は、その後もVIETNAMのバンド活動をサポートし続け、テレビでも代表曲「Victory」のビデオをオンエアしていた。『Vietnam』のリリース直後、ワークマンはシドニーへと拠点を移し、その1年後には、ドランスフィールドも彼に続いた。様々な方法でバンドを再生させようと試みたが、結局、1988年に解散。しかし今回の再発に合わせ、2月には、特別に再結成し、ステージに立った。エイドリアン・ワークマンに話を訊いた。§70年代後半から80年代前半のワイヌイオマタはどんな雰囲気でしたか?雇用、人口といった面で、あの町ピークは、70年代の中頃~後半だ。少年時代を過ごすにはいいところだった。大都会で暮らすのに比べたらの話だけども。〈ワイヌイ〉は、労働者階級が誇りをもって住む町で、コミュニティの繋がりも強かった。80年代初頭には、国内の経済が混乱して、ワイヌイも他の地域と同じようにその影響をモロに受け、工場は軒並み閉鎖された。一般的な10代にたがわず、私も衝動を抱えていたし、谷間の町で暮らしている状況に、抑圧されている感じてもしていた。週末は、退屈した若者たちが公園でたむろしているのをよく見かけたよ。緊迫した雰囲気も少しはあったかもね。週末はだいたいどこかでパーティーがあって、私はそこでいい音楽を聴いてきた。そのなかで何人か生涯の友人もできたし、この町から生まれたサクセスストーリーというのもたくさんあるはずだ。FLYING NUN RECORDS* によるダニーデンを中心としたシーン** についてはいろいろと語られてきましたが、同時期のウェリントンの音楽シーンはどうでした? パンクやポスト・パンクのシーンは盛り上がっていましたか?
〈バンドバトル〉での結果には、驚きましたか?1984年頃のVIETNAMは、もう相当弱っていたけどね。たぶん短期間にライブをやりすぎたせいで、もうあんまり歓迎されなくなっていたんだ。でもあの晩は、私たちの人生のなかでも最高のライブだった。今日までずっと、当時の音源を聴くたびに鳥肌が立つ。その日の演奏が完璧だったからではなく、そのエネルギーがすごくてね。レオンのドラムはバンドを新しいレベルへと引っ張ってくれていたしね。私たちは、経験豊かなバンドたちに歯向かっていく無名のティーンエイジャーだった。最終的に勝利したのは、その大会のオーガナイザーがマネジメントしていた産業ロック・バンドだったけどね。彼らはスカした演奏をしてたけど、私たちの演奏が終わって、ステージから降りたときに見た彼らの顔は忘れない。実のところ、3人の審査員のうち2人は私たちを勝者として選んでくれていたんだ。でも残りのひとりがさっきのマネジメント責任者だった。最近ピーターが、当時の審査員に会ったらしいんだけど、彼が暴露したところによると、自分の仕事を守るために私たちのスコアを低くつけなきゃならなかったそうだ。だからどう頑張っても勝てっこなかったわけだ。だから僕は映画『スクール・オブ・ロック』(School of Rock, 2003)が好きなんだよ。