メルボルンを拠点とするオーストラリア先住民〈マオリ〉のJ・デイヴィス(J. Davies)とベルリンのフロリアン・ヘッツ(Florian Hetz)。拠点こそ遠く離れてはいるが、ふたりには共通点がある。それは写真だ。アプローチや技術は違えど、両者とも人間の身体のなまなましさや、その姿態、感情をとらえている。
4〜5月(一部イベントは6月まで)にメルボルン周辺のさまざまな場所を会場として開催された国際写真フェスティバル、PHOTO 2022。それをきっかけに、この数ヶ月ヘッツはデイヴィスのメンター(ヘッツはこの言葉より〈コラボレーション〉という言葉を好むが)として活動。遠く離れた場所に暮らすふたりはZoomで顔を合わせながら何度も会議を重ね、作品のプロセスについて、互いの生活や趣味について、そしてアーティストとしての自らの目的について語り合った。
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ヘッツはヌードになじみのある世界で、自らのビジョンに沿うようにシーンを構築することに強いこだわりをもっている。一方デイヴィスのアプローチはよりオーガニックだ。被写体が自然体でいられる場所で、親密な瞬間を再現してもらう。オーストラリアでは、まだヌード表現に慣れていないひとが多いとデイヴィスは語る。
同じ潮流に乗っていると言えるだろうが、生活や写真は全く異なるふたり。VICEは今回彼らの対談に参加し、写真におけるアクティビズム、文化の違い、そしてくつろいだ空間で裸の人間を撮影することについて語ってもらった。
VICE: おふたりそれぞれの写真を見ると、親密さ、人間の身体、そして官能的な瞬間に焦点が当てられていると感じます。あなたたちはお互い遠く離れた国を拠点としていますが、それは今回のコンテンツの意味にどのような影響を与えていると思いますか?
J・デイヴィス:それについては自分たちも軽く話したけど、オーストラリアにおけるセクシュアリティやクィア、ゲイ(LGBTQ+)などのセクシュアリティのとらえかたは、ヨーロッパとは全然違う。だから自分個人の視点から言うと、親密さという領域のなかで写真を撮ることを学ばせてもらった。自分は、根強い恥の感覚やスティグマを払拭し、祝福されてこなかったひとたち、その身体を提示しようとしている。そこが違いのひとつだと思う。
フロリアン・ヘッツ:自分のアプローチはまた別。ここでは親密さの表現は普通だし、スティグマについては考えたこともない。自分はずっとベルリンで暮らしているけど、とても自由でオープンな街だよ。一般的にセクシュアリティだけでなく、身体やヌードに関してもポジティブにとらえられている。普通のことなんだ。自分は記録をしているのではなく、周りにあるものをそのまま切り取っている。乗り越える必要はない。自分の歩みこそが、自分の写真の一部。
── なぜ文化によってそこまで違うと思いますか? またその事実が、アイデンティティやセクシュアリティへのアプローチにどのような影響を与えているのでしょう。
フロリアン・ヘッツ:1900年代初頭、外で裸体になること、裸で仕事をすることに関するボディ・ポジティビティ、ボディ・カルチャーのムーブメントが起こった。自分たちの文化はそういう文化なんだ。でもジェイ(・デイヴィス)の国では、宗教的な背景がより厳格だと思う。英国や米国と近い。自分たちにとっては、親が裸になっている姿を見るのは普通。でもオーストラリアでは全く違う。サウナでも服を着ていなきゃいけない。意味がわからないよ。
J・デイヴィス:あと、ヨーロッパでは各都市間でいろんなことが起きているから、その違いも大きいと思う。ひとびとは常に移住をしていて、いろんな新しいものを目にする。異なる視点から物事を考える必要に迫られる。ここではそうはならない。
メルボルンは間違いなくこの国でも進歩的な都市のひとつだけど、自分はこの街で活動するアーティストとして、気まずさを感じる物事に対しての理解や許容が進んでいるとはまだ思わない。
何かに気まずさを感じた瞬間、ひとびとはそれを嘲笑する。違う視点から見ることを強いられないし、他者、つまりクィアや社会から疎外されたひとびと、有色人種のひとびとを理解したいという意識はあまりない。自分たちは自分たち自身の物語をつむごうとしているけど、他国のようなかたちで祝福はされない。
フロリアン・ヘッツ:今もそうだと思う? そういうひとたちは前に比べて認識されるようになった? それとも全く変化していない?
J・デイヴィス:世間的な論調は、以前とはかなり変わってきたと思う。それに、昔は使っていなかったプラットフォームをもつクィア、先住民族、障がい者のひとたちは増えてるよ。自分たちが自分たちなりのやりかたを構築してきたから、みんなももっと自分たちの声に耳を傾ける必要が出てきてる。
フロリアン・ヘッツ:君は自分の作品を社会運動の一環としてとらえてる?
J・デイヴィス:そうは言わないけど、でもトランスジェンダーであることが政治的であるのと同じように、流れに逆らおうとすることはステートメントを掲げることだ、とは思う。ただ、革命を起こしたいから作品をつくっている、というわけじゃない。
フロリアン・ヘッツ:自分が提示するもの、提示しないものについて自覚的であるという意味では政治的だよね。つまり、社会に対して開示すること。だから厳密にいえばそれは社会運動の一部だと思う。自分たちの生活を見せることは大事だし、ひとびとに向き合うことも大事で、いいことだ。
── フロリアンは自分の作品がアクティビスト的な視点で見られる可能性があると感じたことはある?
フロリアン・ヘッツ:自分もジェイと似てるかな。自分自身はいろんな問題についてアクティビストとして活動しているけど、必ずしも自分の写真でそれが表現されてるわけじゃない。たまにInstagramでイランとかパキスタンのひとから感謝のリプライをもらうんだ。「こんなことができると示してくれてありがとう、希望が持てた」って。だからそういう意味では、小さなアクティビズムなのかもしれない。
自分たちはヨーロッパとオーストラリア、それぞれ小さな世界のなかで作品づくりに勤しんでいるわけじゃない。それを今回改めて実感できた。デジタルメディアを通して世界を舞台に活動してるんだ。そういう意味では、自分たちの作品には常にアクティビズムが表れていると言えるんじゃないかな。
── 実際の制作プロセスはどうでしょう。おふたりとも、居心地のよい親密な空間で撮影していますよね。この被写体とのセッションの構想はどのように練るのでしょうか。また、関わってくれるひとたちにはどのようにアプローチしますか?
フロリアン・ヘッツ:自分は幸運なことに、こちらからじゃなくていつも向こうからアプローチしてもらってる。自分の表現、作品について知っていてほしいし。そして、まず普通の場所で相手と会う。自分が撮影するのはモデルじゃない。一般のひとたちなんだ。だからカメラの前に立つことにも慣れてなくて、緊張や不安を抱えてる。自分は相手が気になることを質問できるような場所を提供してる。
現場は笑いが絶えないよ。生真面目な感じでは進まない。こんなこというとバカみたいだけど、でも結局自分たちは写真を撮影してるのであって、別にガンを治そうとしてるわけじゃない。自分が見ているもの、切り取りたいものについて明確に決めているから、被写体にはそんなに動いてもらわないし、被写体が自己表現する自由もそんなにない。それが自分のやり方。
J・デイヴィス:自分はフロリアンとはかなり違う。トライ&エラーの繰り返しだよ。自分は比較的コミュニケーションが苦手で、不安を感じるタイプだから、自分と相手がどうすれば心地よくいられるかはいまだに試行錯誤してる感じ。だからこちらの準備としては、自分自身も不安であるということを相手に知ってもらうことだね。あと相手にはいつも、自分がセクシーな気分になれる服装や下着、小物を見つけてほしいと頼んでる。それが自信をもつための第一歩だから。
── 全然違うアプローチですね。フロリアンはより厳格ですが、ジェイは被写体の〈らしさ〉をとらえる。
J・デイヴィス:そう。もともとヌードや身体を撮りはじめたのは10年くらい前なんだけど、長いこと休止してたんだ。再開して今は3年くらい。自分の意識もガラッと変わった。昔は家のなかでひとを撮影することはなかったけど、今は寝室とか被写体が安心していられる場所、浴室、シェアハウスなんかで撮ってるよ。
制作プロセスで重要なのは、親密さについて学ぶこと。さらに居心地のよい空間について、そしてくつろぎを感じたときにひとがどうふるまうかを知ること。それが自分の仕事の大部分を構成してる。基本的には前から知っているひとや仲のいい友だち、友だちの友だち、恋人しか撮らない。すでに何らかの関係性が構築されているひとだけ。
── 過去、そして未来のそれぞれの作品について考えたとき、世間からどんなふうに受け止められたいと思いますか? それとも世間の反応より、自分自身にとっての意味のほうが大事?
フロリアン・ヘッツ:作品はそれ自体が語ると思っていて、自分自身が鑑賞者なんだ。自分がしていることはすべて自分のため。自分が満足して世界に向けて発信してるけど、その反応も大切ではある。好意的に受け止めてもらえればお互いにハッピーだ。でももしハッピーではないひとがいても、自分にダメージはない。
50年先も意味をもつ作品であってほしいと思う。
J・デイヴィス:昨年、仕事で事故に遭って死にかけたんだけど、顔面再建手術を受けて治療をした。そのとき母に、もしあなたが死んだらあなたのアーカイブや作品はどうするの、と訊かれたのを覚えてる。そんなこと考えたこともなくて、そこでハッとした。
アーカイブは膨大だよ。数年前から自分の人生を徹底的にアーカイブしてきたけど、誰にもアクセスできないから誰の目にも触れることはない、と気づいて「ヤバい」と思った。見たいひとに見てもらえるようにしたい。
世界の裏側からでもアクセスできるのならぜひ見てほしい。何か特定のものを表現しようとしているわけじゃないんだけど、作品の多くにはつながりやコミュニティが表れているから、もし自分が死んでも作品はそのテーマを体現していてほしい。どんなかたちであってもね。
J・デイヴィスとフロリアン・ヘッツの作品は4月29日〜5月22日(一部イベントは6月まで開催)にメルボルンをはじめとするビクトリア州各地で開催されたPHOTO 2022にて展示された。
フロリアン・ヘッツのAR写真展〈Haut〉はエンジェル・ミュージック・バーにて5月29日(日)まで開催された。
J・デイヴィスの作品はメルボルンの現代写真センターで開催された〈QUEERING THE FRAME: COMMUNITY, TIME, PHOTOGRAPHY〉にて6月12日まで展示された。