シカゴ南端の住宅街ジェフリーマナーに、清々しい秋の朝が訪れた。徐々に気温は下がり、鳥のさえずり、葉が擦れ合う音、埃っぽい道を駆け抜ける車のごう音が聴こえてくる。〈風の街〉シカゴは平和な空気に満ちていた。
1960年代初め、人種隔離政策の影響で低収入世帯が大打撃を受けるなかでも、シカゴの犯罪率は比較的低かった。それが一変したのは、1966年7月14日水曜日のこと。「なんてこと! みんな死んでる!」という20代の女性の叫び声が、朝の静寂を切り裂いた。コラゾン・アムラオは、近所のサウスシカゴコミュニティ病院(South Chicago Community Hospital)の看護学校のフィリピン人交換留学生。彼女が目撃したのは、見るも無残な光景だった。
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東100番通り2319番地で、コラゾンは一晩中隠れていたベッドの下から這い出し、8人の女性が亡くなっているのを発見した。彼女たちは近所の病院の看護師で、2階建てのタウンハウスのあちこちに横たわっていた。のちにコラゾンの弁護士、ウィリアム・〈ビル〉・マーティンがジャーナリスト、デニス・ブレオとの共著『Crime of the Century: Richard Speck and the Murders That Shocked a Nation』で説明したところによると、彼女たちの遺体には、布できつく縛られていたために濃いアザと、むごたらしい刺し傷が残されていた。うち7人はコラゾンのハウスメイトで、ひとりは近所の家から泊まりにきていたという。
8人の殺人を実行したのは、リチャード・スペックという男だった。マーティン氏によると、当時24歳のスペックには飲酒運転、不法侵入、文書偽造、暴行、レイプ、窃盗、殺人など、計41回の逮捕歴があったという。彼は4日も経たないうちに逮捕された。事件が起こった週の週末、彼は自殺を試み、自らつくった血溜まりのなかで助けを求め、その声を聞きつけたルームメイトによって命を救われた。クック郡病院(Cook County Hospital)に救急搬送された彼は、前腕に入った〈Born to Raise Hell〉というタトゥーによって身元が判明し、スペックと被害者たちは劇的な裁判を繰り広げることになる。しかし、一連の騒動の裏には、今まで明かされてこなかった秘話があった。これは筆者である私の大おばが語った証言の記録である。
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事件から数十年が過ぎ、私は凄惨な事件が起こった現場の前に立っていた。東100番通りは、1993年に出版されたマーティンとブレオの共著に掲載された写真とほとんど変わらない。私の隣にいるのは、私の74歳の大おば(母方の祖母の姉妹)のルイザ・シルヴェリオ。1966年当時、ルイザは犯行現場には居合わせなかったものの、当日の午後にこの家を訪れていた。彼女がリチャード・スペックの手を逃れることができたのは、純然たる幸運のおかげだった。
ルイザはコラゾンと同様、シカゴに住む看護学生だった。7月13日、彼女は同僚の23歳のヴァレンティナ・パションと、犯行現場となったタウンハウスの一室でお互いの爪にマニキュアを塗り合っていた。ふたりは近くの病院で午前7時から午後3時までの7時間のシフトを終えたばかりだった。ホームシックや、マニラで受けた実習前の授業について話していた、とルイザは回想する。疲れ切っていたふたりは、その晩タウンハウスに泊まることにしたという。ヴァレンティナは、タウンハウスに住むフィリピン人看護師のコラゾン、マーリタ・ガーガロ、ルイザ、そして自分自身のために、パンシットという野菜と牛肉を使った焼きそばのようなフィリピン料理をつくった。
日が沈み始める頃、ルイザは、彼女の帰国を待っていた当時の恋人から、手紙が何通か届いていたことを思い出した。彼女は長いこと返事を先延ばしにしていたので、彼に手紙を書いてから荷物を持ってタウンハウスに向かおうと考えた。結局、この手紙が彼女の命を救うことになる。
「そこで私は家に帰った」と彼女はタガログ語と英語を交えて当時を振り返る。「3通の手紙に返事を書かなきゃいけなくて。家にいたら、病院から翌日のシフトを代われないか、って連絡があった。その日はもともと休みだったのだけど」。恋人に返事を書いたあと、彼女は今夜泊まれなくなった、とヴァレンティナに直接伝えることにした。スペックが既にタウンハウスに到着し、看護師全員を拘束しているとは、彼女は知る由もなかった。
ルイザはしばらく正面玄関で待ったあと、裏口に回った。そしてもう一度正面玄関の呼び鈴を鳴らした。いら立ったスペックは2階に戻り、見知らぬ訪問者が立ち去ることを願った。誰も降りてくる気配がなかったので、ルイザはそのまま家に帰った。彼女は知らぬ間に3度も自らの命を危険にさらし、無傷で逃れることに成功したのだ。
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リチャード・スペックが殺害したのは、フィリピン人看護学生のヴァレンティナ・パショナとマーリタ・ガーガロ、そして米国人看護学生のニナ・ジョ・シュメール、グロリア・デイヴィ、スザンヌ・ファリス、パトリシア・マトゥセク、パメラ・ウィルケニング、メアリー・アン・ジョーダン。この事件は当時、米国という国の根幹を揺るがした。このような事件を〈大量殺人〉として報道することは、まだあまり一般的ではなかった。1967年、2週間に及ぶ裁判に続くわずか49分間の陪審評議の結果、スペックは有罪となり、電気椅子による死刑を宣告された。しかし1972年、米国最高裁判所が違憲だとして死刑を廃止したことにより、彼は死刑を免れた。1991年、懲役400年を言い渡されていたスペックは、獄中で心臓発作によって亡くなった。
シカゴで看護師として2年間の契約を更新したあと、ルイザはフィリピンに帰国し、結婚し、家庭をもった。1974年、彼女たちが再びシカゴに移住すると、夫と幼い息子たちは彼女が危うく命を失いかけた現場を見たがったが、当時はまだ間接的なトラウマに苦しんでいた彼女にとって「それは無理だった」という。「心にひどい傷を負ってしまったの。同僚の看護師たちも私も、泣いてばかりだった」
現在、住宅街に立ち並ぶタウンハウスの入り口は、黒い鉄製のフェンスで塞がれている。前庭の芝生を囲むフェンスがないのは、2319番地の住宅だけだ。ルイザが歩いた正面玄関から裏口までの暗い小道はフェンスで閉鎖され、キッチンの窓ガラスもブラインドで覆われていた。閉鎖された小さな裏庭には、白塗りの木造の小屋が建っている。私は大おばがタウンハウスを見て回るのを見守っていた。
タウンハウスから数ブロック離れたところにある、彼女が以前住んでいた2410番地のアパートは、今もそのまま残っていた。このアパートの玄関もフェンスで塞がれていたが、玄関ポーチは開け放たれたままだった。私たちは家の前で写真を撮ることもできた。
シカゴに滞在中、ルイザは若い看護師時代の写真を見せてくれた。なかには事件の唯一の生存者、コラゾンが写っているものもあった。彼女は結婚し、子どもや孫たちと幸せに暮らしている。
ヴァレンティナについて、ルイザはタガログ語でこう語った。「もし今でも彼女が生きていたら、また会えたかもしれない…。みんなで集まったりして…」。彼女の目には涙が光っていた。
「彼女のパンシットはおいしかった」とルイザは続け、にっこりと微笑んだ。「そういう思い出を大切にしたい」
This article originally appeared on VICE UK.