横浜育ちのサーファー、花井祐介。ヴァンズ(VANS)やビームス(BEAMS)、ニクソン(NIXON)など、アパレル&ファッション・ブランドとのコラボレーションによって、日本でも、その名を耳にするようになったアーティスト。 サーフィンというカルチャーを愛し、関連のアートショーやフェスなどに出展する機会が多いからか、その手のジャンルのアーティストとして認識している人も多いだろう。しかし、そもそも、その手のジャンルとは何だろうか?他のアーティストも含め、よくよく作品を見てみると、特別サーフィンをしている姿や、その周りの状況だけを描いているわけではなく、サーファーだけしか描けない世界ではない、とわかるはずだ。その出自やジャンルだけで物事を判断しなければ、花井祐介が本当に描きたいものが見えてくるはずだ。
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絵をはじめたきっかけは?
もともと出身が金沢八景って、海に近い横浜なんですけど、確か2000年くらいだったかと思うんですが、19歳のときに知り合いの先輩が、〈ロード・アンド・スカイ(THE ROAD AND THE SKY)〉というバーを、コンクリートをはつって穴掘って、壁立ててみたいな、まさに土木工事から自分たちでやったのがきっかけです。何人かで作業したのですが、看板やメニューを「どうする?」ってなって、別に僕も絵の勉強をしてたわけではなく、ただ子供の頃から人の似顔絵を描いてふざけて遊ぶのが好きだった程度なんですが任されて、横幅3メートル、縦1メートルくらいの看板を描いたんです。
どういうテイストの看板を描いたのですか?
バーのオーナーの先輩が湘南のサーファーで、60年代と70年代のアメリカン・カルチャーに傾倒していたんです。『アート・オブ・ロック(ART OF ROCK)』というロックのポスターなどが載ってる本、レコードを持っていました。そのなかにあった、ジャクソン・ブラウン(Jackson Brown)という当時50〜60歳のシンガー・ソングライターのレコード・ジャケットをベースに描きました。それが、ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)や、グレイトフル・デッド(Grateful Dead)のポスターを描いているリック・グリフィン(Rick Griffin)の作品でした。サイケデリックなアートワークで有名なアーティストのテイストを参考に描きました。
そもそも、なぜ、ロード・アンド・スカイのオープンを手伝うことになったのですか?
僕らが高校生のときに、その先輩が地元で別のカフェをやっていて、そこで同級生がバイトをしてたんです。毎日プラプラしてたので、そこでタバコを吸ったりして、溜まってたんです。そしたら「お前らサーフィンやりたいんだったら連れていってやるよ」と誘ってもらいました。そこからの付き合いです。バーがオープンしてからも、一般の大学に通いながら、5年間ほぼ毎日バイトをしてました。
どのようなバーだったのですか?
バーのオーナーが、もともと横浜に何店舗もある老舗の〈バディー〉という、いわゆる横浜カルチャーというか、カリフォルニアが好きな人、60年代から70年代の音楽、カルチャーが好きな人が集まるバーで働いていたんです。それもあって、ロード・アンド・スカイもアメリカ好きな湘南のローカル・サーファーが溜まって毎晩のように大騒ぎする場所でした。キャラバン(Caravan)とか、スペシャル・アザーズ(SPECIAL OTHERS)とか、横浜っぽいミュージシャンがライブしてました。
横浜のカルチャーとは、どんな感じだったんですか?
特別オシャレではないんですけど、独特な文化があります。米軍基地が本牧にあるので、アメリカっぽいイメージはもともとあるでしょうね。ミュージシャンも多くて、ジャック・ジョンソン(Jack Johnson)みたいなユルい感じから、レゲエまで。フィッシュ(Phish)とかのジャムバンド系が好きな人も多いです。あとは、ヒッピー風の人も多いですね。ちょっとユルいというか、洗練されていなくて土臭いというか、キャラが濃い人が多くて、しかも汚い(笑)。だから、僕もそうですが、ファッションはどうしても古着っぽくなります。リーバイス(Levi’s)の501にペンドルトン(PENDLETON)のネルシャツ着て、みたいなのが多いです。あとは、海がすぐ近くにあるので、東京と比べるとサーファーは多いですね。サーフショップも多いので、サーフ・カルチャーに触れる機会は、環境的にも多いと思います。
花井さんも高校生の頃から、オーナーの影響もあり、サーフィンにもハマっていくのですね?
僕がサーフィンをはじめた頃は、今と違って、もろ体育会系です。ショートボードしか許されない時代でした。すごく細い3本フィンの、エキスパートが乗るようなショートボードで始めなきゃダメで…。とにかく沖に出るのも辛い。ロングボードのほうが推進力があって、波に乗りやすいし、立ち易いんですが、ちょっと長いだけで〈インチキ・ボード〉みたいなレッテルを貼られたので。当時は、本当に修行でしかありませんでしたね。
ショートボードだと、そもそも、立てるようになるまで時間がかかると聞きます。
僕、まったく負けず嫌いじゃないんです(笑)。海にいくたびに、「なんで、こんなことやってるんだろう?」と疑問でした。しかも「波いいぞ」と台風の日に先輩に連れていかれて、死んでしまうんじゃないかって(笑)。朝早かったりもしますし、本当に、なんでやってんだろう、って感じでした。
また、高校生だと車もないですよね。サーフボードを持って海に行くのも大変ですよね?
高校生の頃は電車です。七里ヶ浜や鎌倉、あとは葉山の海にもいってました。七里ヶ浜だと、電車で通えないこともなかったので、江ノ電にサーフボードを持って乗ってました。だから、ロングボードじゃ通えなかったんですけどね。
どっかで楽しくなるポイントはあったんですか?
そうなんですよね。楽しくなるポイントってなんですかね? 1回、波に乗れちゃったり、立てたりするとですかね? しょっちゅうサーフィンしてたわけじゃないので、腹ばいになって、波に乗るのも数回目でやっとでした。立って横に走ってとなると、本当に1年以上かかったんじゃないでしょうか。運動神経も良くないんで(笑)。
その時代だと先輩たちも怖そうですしね。
先輩方はオフスプリング(The Offspring)とかサブライム(Sublime)とかを聴いて、ガツガツ、ブラックフライ(BlackFlys)のサングラスをかけて、ダボダボのパンツ穿いてました。いわゆる不良ですよね。それこそ、僕がサーフィンを始めた頃は、デビル西岡さんとかが健在で。話すとすごく良い人で、横山泰介さんとか、そこらへんの先輩たちがバーによくいて、すごく可愛がってもらったんです。ただ、そんな先輩たちがバーに溜まっていたので、23時まで仕事をして、翌朝、波良いからそのまま海、という生活でした。いつも「なんなんだよ、これは」って思ってました(笑)。でも、体が慣れてしまうんですよね。いつの間にか好きになって、今じゃ、絶対にやめられません。その後、2000年くらいに、〈ロングボード・リバイバル〉というムーブメントがあって、ジョエル・チューダー(Joel Tudor)がでてきました。ヒッピーの感じというか、リーバイスの517を普通に履いてもいいんだ、サーファーでも不良っぽくなくていいんだ、と思えたのも大きかったですね。
なるほど。では、大学に通いながら、サーフィンして、ロード・アンド・スカイで働く時代を過ごすのですね。他には、どのようなカルチャーに惹かれたんですか?
あと、リック・グリフィン、グレイトフル・デッド、ジミ・ヘンドリックスが好きだったので、ヒッピーを掘って、その前が知りたくて掘っていくと〈ビートニク(Beatnik)〉にいきつきますよね。
例えば、ジャック・ケルアック(Jack Kerouac)の『路上』とか読みづらいでしょうが、そこから、何を感じ取ったのですか?
すごく読みづらいですよね。ただ、なんか文体も含めて自由な感じが良かったんです。あとは、若い頃の衝動だけで成立してる感じがするじゃないですか? ケルアックは面白くて、ひと通り読みました。陰気な若者の、人気グループじゃない、キラキラしてない世界観が良かったんです。一方で、アレン・ギンズバーグ(Allen Ginsberg)は、なんか気持ち悪くて、途中でやめましたけどね。『howl』(ハウル)とか本当にトリップして気持ち悪いグチャグチャの状態を書きすぎているから、途中で読めなくなりました。この時代のキラキラしたチーマーみたいなアメリカ感じゃなくて、もっと古いアメリカ文化を掘りました。
では、本当にロード・アンド・スカイのオーナーとの出会いが、サーフィン、アメリカの50年〜60年代のカルチャー、何より絵を描くきっかけとして大きかったのですね。
そうですね。看板とか描いていくうちに、絵を描く仕事が楽しいのかな、と思うようになりました。オーナーの影響もあり、リック・グリフィンをはじめ、サンフランシスコのアーティスト、スタンリー・マウス(Stanley Mouse)とアルトン・ケリー(Alton Kelley)のマウス・アンド・ケリー(Mouse & Kelley)も好きになりました。あとは、リック・グリフィンの時代ではありませんが、系譜でいうと80年代のサンタクルズ(Santa Cruz)の〈スクリーミング・ハンド〉で著名なジム・フィリップス(Jim Phillips)とかですね。ジム・フィリップスの作品集を見ると、80年代よりも前から描いてて、60年代くらいに描いた古い絵のほうが好きなんです。それで、バーで働いてお金を貯めて、2003年にサンフランシスコに留学しました。
いきなりサンフランシスコですか?
今だと他の選択肢もあるでしょうが、その時は、23歳になっていたので、例えば、国内の美大に通ったり、新たに国内で学生になるのが、なんか出遅れてる気がしたんです。あと、サンフランシスコに住んでみたいっていう単純な憧れもありました。21歳のときに、サンフランシスコにバックパッカーでいってたんで、いつか住んでみたい、というのもありました。当時は汚くて、ユルくて、小便と草の匂いばっか、みたいなサンフランシスコの街に惹かれていました。あとは、リック・グリフィン、グレイトフル・デッド、ジミ・ヘンドリックスの音楽、ビートニクの作品、サンフランシスコのカルチャーが好きだったのが、何よりも大きかったです。僕が住んでいる頃は、バリー・マッギー(Barry McGee)のグラフィティーが街中にあった時代で、MOMAの隣の美術館で、でかい展示をやったんですよね。それを見た記憶があります。そんな理由から、サンフランシスコかなと。
サンフランシスコで絵の学校にも通ったんですね?
1年間サンフランシスコに住んでいたんですが、最初の半年間は、まず、語学学校です。そのあとの半年間は、アカデミー・オブ・アートカレッジ(The Academy of Art College)の基礎コースに通いました。英語も、アート・スクールまでに喋れないと授業を受けれないんで、必死で勉強しました。全く喋れませんでしたが、朝8時から夜8時まで、受験生かよ、ってくらい、とにかく英語だけ勉強しました。もちろん、ペラペラにはなりませんが、ある程度、授業が理解できてコミュニケーションがとれるレベルまで、半年間で習得しました。年齢的なこともあり、必死でしたね。やるなら今しかないと。アート・スクールでは、人体のバランス、デッサン、遠近法など、本当に、絵を描く基本だけを習いました。確かに、学校に通っていた頃が、人生で最も絵が上手かったと思います。常にモデルさんがいて、朝から晩までデッサンできる場所がありました。授業が終わると、そこでひたすら描いていました。
もちろん、サーフィンもやっていたんですよね?
サンセットというオーシャンビーチから3ブロックくらいのところに住んでいたので、波が良ければサーフィンしていました。基本波がデカすぎるので小さいときに(笑)。あとは、週に1〜2回、20〜30ドルくらいで、かなり豪華なライブがありました。ジャムバンド系もありました。1番ラッキーだったのが、ベン・ハーパー(Ben Harper)の前座に、有名になる前のジャック・ジョンソンが出演したんですが、そのライブにサンタナ(Santana)が飛び入りしたんです。本当に小さなライブハウスで色々やってたんですよね。
先ほど「汚くて、ユルくて、小便と草の匂いばっか」とサンフランシスコの魅力をお伺いしましたが、街の様子はどんな感じでしたか?
サンフランシスコは、曇りばかりで天気が悪いんです。テンダーロイン地区は、下着だけの黒人のおばちゃんが壁に向かって叫んでたり、注射器がそこらへんに落ちてたり、自転車を停めていたらサドルにゲロを吐かれてどうしよう、みたいな(笑)。一方で、住んでいた地域は、僕が帰国した次の年くらいから、モラスク・サーフショップ(Mollusk Surf Shop)ができて、そのあと、コーヒー屋さんとか、オシャレなジェネラルストア(GENERAL STORE)ができましたが、当時は何もない素朴なエリアでした。雑多で何でもごちゃ混ぜの感じが好きでした。カラッ、と白人だけみたいな世界より、毎日が世界旅行みたいで楽しかったです。
なぜ1年間で帰国したのですか?
サンフランシスコは、家賃も学費も高いので、お金がなくなりました。もう少しサンフランシスコに居たかったから、親にお金を借りようとしたんです。そうしたら、母親から、父親が白血病になった、とメールがきました。このままここで生活してる場合じゃない、と帰国したんです。結局、父親は無事でしたから良かったですけど、とりあえず日本で仕事に就こうと。
サンフランシスコから帰ってきて、すぐに絵の道が開けたのですか?
絵はちょっと上手くなりましたけど、帰国しても何も仕事がなくて「何しに行ったんだろう?」って思ってました。それで知り合いの看板屋でバイトを始めました。
どのくらいの期間、看板屋で働くのですか?
2年も働いてないはずです。看板屋で働きながらも、やっぱり絵の仕事がしたかったので公募に応募していました。そしたらユニクロ(UNIQLO)のクリエイティブ・アワード、たぶん今でもやってる公募に応募したら入選して、Tシャツになって、10万円のギャラをもらいました。また、そのとき応募した絵が『MdN』というデザイン雑誌のスタッフの目にとまり、取材を受けたんです。そしたら、それを知り合いの知り合いのサイバーエージェントのスタッフが目にしたようで、サイバーエージェントに誘われ、ウェブ・デザイナーとして働くことになります。そのときは、あまり訳がわかってませんでしたが、すごくデカイ会社で(笑)。
ウェブ・デザインの仕事は、楽しかったんですか?
フォトショップを使ったグラフィック・デザインを担当していました。基本、モノをつくるのが好きなので、クライアントのリクエストをカタチにすると、喜んでもらえるのが面白かったです。別に、やらなくて済むならやりません。ただ、未だにクライアントワークも好きです。自分の作品を好き勝手に描くのはもちろん好きですが、本当に人に喜ばれてるのか、わからないですからね(笑)。
作品づくりも継続していたんですよね?
もちろんです。まず大きかったのが、アメリカでやっていた〈ムーン・シャイ・フェスティバル(The Moonshine Festival)〉というイベントが〈グリーンルーム・フェスティバル〉と名前を変えて、その第1回目が横浜で開催されたことです。そこで、ロード・アンド・スカイがフードブースに出店して、僕がその看板を描いたんです。そしたら、そのイベントに参加していたジェフ・カンハム(Jeff Canham)、アンディ・デイヴィス(Andy Davis)など、サーフ業界で有名なアーティストと、彼らを扱ってるギャラリーのスタッフやキュレーターがきて「お前の絵は面白い。作品は飾ってないのか?」と聞かれて、「俺は別にアーティストじゃないし、看板を描いてただけだから」って答えたんですよ。そしたら、今度作品を送ってこいと。
どういう看板を描いていたのですか?
サンフランシスコのメキシコ料理屋みたいな看板です。ロード・アンド・スカイが、タコスやブリトーを売っていたので、メキシコ料理屋のおじさんみたいな絵、黄色の看板に緑と赤で店名とメニューを描きました。ただ、アメリカのギャラリーのスタッフに、作品を送ってくれ、といわれても、どうしよう、ってなりますよね。作品なんか描いたことないのに。
どんなテイストの作品を送ったのですか?
僕がリック・グリフィンを好きなのを、彼らは知っていたので、60年代テイストのサーファーがいる絵を描きました。本当に60年代のロックポスターみたいな感じを真似して描いて送りました。1度送ったら、こんな展示があるから出してみないか、グループショーがあるから出してみないか、と誘ってくれたんです。そしたら、ムーン・シャイン・フェスティバルからハプニングって名前を変えた、ニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドン、パリ、シドニーと、世界中をまわるイベントに参加できるようになりました。そのイベントでは、ジャック・ジョンソン、Gラブ(G.Love)、トミー・ゲレロ(Tommy Guerrero)がライブしてました。トーマス・キャンベル(Thomas Cambell)とか、バリー・マッギーが作品を飾ってたイベントに、なぜか僕も混ぜてもらえるようになったんです。そしたら、いきなり、作品が売れました。お前の絵が売れたぞ、といわれて、どんな人が買ったのか聞くと、ベン・ハーパーのマネージャーだ、と教えてもらいました。その後、ジャック・ジョンソンを発掘して、ファースト・アルバムのプロデューサーになった人なんですが、すごいセンスの持ち主です。コーネリアスの作品もプロデュースしています。そんな人が僕の作品を1番最初に買ってくれたんです。そのあと、ベン・ハーパーのライブが日本であるからお前も来い、と誘われたので会いました。今でも応援してくれていて、度々、メッセージくれたりして、関係が続いています。
グリーンルーム・フェスティバルでの出会いから、一気に花が開くんですね。
花が開くというか、そこから色々変わりました。グリーンルーム・フェスティバルでの繋がりで、日米を問わずサーフィン雑誌のイラストを描く仕事がもらえるようになりました。
サーフィン雑誌には、どのような絵を依頼されていたのですか?
『ブルー(Blue.)』『オンザボード(ON THE BOARD)』とかのサーフ雑誌で描きました。例えば、シングルフィンはサーフボードの王様です、という絵を頼まれたら、シングルフィンのサーフボードを持ったキャラクターが王冠を被っている絵を描きました。少しづつですが、依頼がくるようになりましたね。
ビームスとの仕事も早くからやってますよね?
ビームスは、それこそ日本で無名だった10年前くらいから、仕事をさせてもらってます。それも、グリーンルーム・フェスティバルで知り合ったキュレイターの繋がりで出展した〈ハプニング(Happening)〉だったり、ニューヨークのグループ・ショーに参加したのを、ビームスのスタッフが見つけてくれたんです。トーマス・キャンベル、バリー・マッギー、アンディ・デイヴィスとかに混じって花井祐介でしたから、不思議だったみたいです。その後、アメリカ人の友達が主催してるイベントで演奏していたミュージシャンが紹介してくれました。「僕ビームスなんですけど、一緒に仕事してもらうことは可能ですか?」といわれたんです。可能じゃないワケがないじゃないですか。そこからですね。
他には、どのようなクライアントと仕事をするんですか?
あとは、オシュマンズですかね。これも10年前くらいからです。オシュマンズに、ガッツりサーファーのバイヤーがいたんですよ。彼に、カリフォルニアにいる知り合いがアパレルブランドを始めるから、とグラフィックを頼まれて描いていたんです。そのブランドの展示会のタイミングで遊びにいったときに、オシュマンズの別のスタッフに会って「日本人なのに、こんな絵を描く人がいるんですね」と話をして、そこからの関係が、未だに繋がっています。
ビームスやオシュマンズなど、大きなクライアントワークもするんですね。
〈ハプニング〉でまわりながら作品が売れはじめました。同時に、看板屋やサイバーエージェントの仕事をやりつつ、作品を送ったりしていました。サイバーエージェントの仕事をしていた頃は、まだ若かったからか、終電で家に1時過ぎに帰り、そこから作品をつくってましたね。あとは、ビームスのイラストなど、好きな仕事を4時くらいまでやって、寝て、7時前には起きて9時に出社するハードな生活を、30歳くらいまで5年ほど続けました。それでも、週末は、絶対にサーフィンがしたかったんですよ。そのうち作品づくりが忙しくなり、ほとんど寝れなくなってしまいました。その結果、病気です。それで、サイバーエージェントをやめることになりました。
その後は、作品づくりとクライアントワークのみに集中していくのですね。そもそも、いつ、今の花井さんの作品のテイストを確立するのですか?
どうなんだろう? 例えば、人物がニコニコしていないのは、昔から変わらない気もします。ある系統は同じでしょう。ただ、今よりもっとゴチャゴチャしていたかもしれません。
いつ頃から、そういうテイストの絵を描いていたのですか?
子供の頃描いていた似顔絵もそうです。たぶん、当たり前に描いていたので、勝手に今のテイストになったんでしょう。しっかり教育を受けていたら、明確に答えられるのかもしれませんね。
ちなみに、子供の頃は、どのような似顔絵を描いていたのですか?
それこそ、幼稚園、小学校の頃はキン肉マンばかり描いていました。ただ、みんなに見せるためではなく、誰かの似顔絵を描いて、友達だけに見せて笑うのが楽しかったんです。
人の特徴を捉えて強調した似顔絵を描いていたのですね。
だから未だに怒られます。女の人、自分の顔が大好きな男の人を描くと、すごく怒られます。今でこそ、頼まれて描くと喜ばれますが、ずっと嫌な顔をされてきました。友達はすごく笑うけど、本人はすごく嫌がります。女の人は、よく描いて欲しいでしょうから(笑)。学生のときは、隠れて描いて、本人に見せずに友達と笑ってました。
観察していて、ダメなポイントを見つけて、そこを笑いに変えて、よく見せるというか…。
面白いと思う人を描くことが多いですね。キラキラした人たちを描いちゃったら怒られるじゃないですか。笑いものにしてるみたいで。それよりも独特の人を描くのが好きです。この人ダメなんだけど共感できる、良い人だな、そんなポイントを見つけて描いていました。
子供の頃からシニカルな視点があったんですね。いわゆる人気グループには、入らなかったのですね?
勇気がなかったんじゃないですか(笑)。あとは、〈俺を見て〉みたいな人たちが、もともと苦手なんです。未だにパーティーとかレセプションに呼ばれても、一応、いた形跡、証拠だけは残すけど、隅っこでビール1杯飲んだらすぐに帰りますからね。
幼少期の頃からですか?
そうですね。戦隊モノでもレッドは好きじゃないです。キン肉マンでもブロッケンジュニアとかバッファローマンが好きなタイプです。あと、先ほども話しましたが、もともと負けず嫌いじゃないんです。例えば、ファミスタとかで、負けてる友達がイライラしたりするじゃないですか。そしたら、わざと打たれて場を収めたくなります。
負けの美学ですか?
それよりも、場の空気が乱れるのが嫌ですね。綺麗に散る、という気持ちはなく、ただ、この人超怒ってるから場が収まるなら別に負けてもいいか、という気持ちです。だから、絵でも、みんなに発表するような性格ではありませんでした。音楽も、ニルバーナ(Nirvana)みたいに陰湿な感じが好きで、サブライムみたく、カラッ、としすぎてるのは、あまり聴きませんでした。ちなみに、子供の頃から喘息持ちで、運動も苦手でした(笑)。
確かに、そういうダメさ加減だったり、シニカルだったり、ちょっと陰気だったり、さりげない感じだったりが、作品からは伝わってきますね。ちなみに現在、人物を描く際、人物設定、その場の状況など、どこまで詰めてから描くのですか?
まずは描く人物が、何を思っていて、どういう状況なのかを考えます。だいたい、ふざけてるんですけどね(笑)。例えば、サンフランシスコで暮らしていたとき、図書館で英語の勉強をした帰りに自転車に乗ろうとしたら、すげえ低いな、と思ったんですよ。そしたら、ホイールが両方盗まれてました。その時の感情や場面を描いていたりもします。あとは、仮装バンドのレコードジャケットの依頼には、僕の鼠径ヘルニアという脱腸の経験から、メンバー全員がヘルニア、脱腸持ちのバンドを描いたりもしました。喜ぶと思って娘の前でお面を被ったら泣かれた場面も描きました。良かれと思ったのにしくじった、そういう人って愛らしいですよね。何やってんだよ、って感じだけど、まぁ根は悪くないんでしょうね。
こういう人がいいなって、憧れの人を描いている感覚もあるんですか?
それよりも共感、いいじゃん、という気持ちが強いですね。こうなりたい、みたいな人は描いてません。
体験をもとに、状況や場面、感情を絵にしているのですか?
それもあるし、人を見てて、ダメじゃん、と思う場面を描いたりもします。例えば、『ザ・サーファーズ・ジャナール(THE SURFER ’S JOURNAL)』で連載している、ひとコマ漫画には、つかってると硬くなるウエットスーツを描きました。手伝ってもらわないと脱げなくて、無理やり引っ張ると破れたりするんですが、そんな場面を描いたりもしています。あとは、バーで働いていたときの経験も多いです。また飲んじゃってる、ダメだな(笑)って人とか、この人すげぇ、しっかりしてると思ったのに、全然ダメダメだったとか、そんな様子も描きました。お酒に飲まれて、ダメダメになる人をたくさん見れたんで、バーで働いてるときは面白かったですよね。
確かにバーやサンフランシスコでの体験などが、作品に繋がっていることも多そうですね?
多いと思いますね。変な人、それこそサンフランシスコにも変な人がたくさんいました。
自分をそういう環境に置くと、作品がドンドンできそうですね。
体力ないんで、バーで飲んでばかりいるのも辛いですけど、でも、やっぱりそうでしょうね。
自分だろうと他人だろうと、ご自身のリアルな体験の集積を絵にすることが多いんですね。
全てじゃないですけどね。たまに想像して描いたりもします。人の顔は、だいたい想像ですね。
例えば小説を読んで、その情景から描くこともあるんですか?
共感できるというか、この人何やってるんだ、と思えるようなものなら描いたりもします。例えば『メリーに首ったけ』(There’s Something About Mary)とか、くだらないコメディーというか、ああいう映画が大好きなんです。ストーカー、嘘つき、癖のある人が登場人物なんですけど、それでも憎めないキャラクターたちが好きです。『チーチ&チョン』(UP IN SMOKE)みたいな、本当に何やってるの、という。あれはマリファナ・ムービーですから、日本では成立しないでしょうけど、アメリカはそういうのが許されてるところがありますよね。そういう映画からもインスパイアされたりします。キラキラ、オシャレな映画よりも、くっだらないコメディーが好きですね。
自身に起こったこと、もしくは人を観察していて起こったことを記憶して、人物設定や場面、状況を、アウトプットするんですね。
一応、自分のメッセージとして、大変なことをやらかしてしまうと、なんで俺バカなことやっちゃったんだ、最悪だな、と悔やむけど、後々、酒のつまみにして笑えるじゃないですか。人にはそういう力があるんじゃないかと。
いつから、そのように、状況を設定する描き方になるんですか?
いつからかはわからないですが、ただ単に描いていてもつまらなくなってしまって。それに、人の絵を見ても、ストーリー性のある絵の方が面白いですしね。
作品をつくるようになって、より強調されたのではないのですか?
確かにそうかもしれないですね。アメリカの真似みたいなところから始めましたが、アメリカ人と仕事をするようになったら、アメリカのものをそのまま描いていてもしょうがないですよね。よりオリジナリティーを出すにはどうすれば良いのか、自分の絵ってなんだろう、と考えたりするようになってからもしれませんね。
オリジナリティーを確立した実感がありますか?
わかりません。日本人からは、すごくアメリカっぽい、と言われますけど、逆に、アメリカ人からは、日本ぽくて面白い、と言われます。少しは、何者でもない自分だけのオリジナルになってきてるのかな、と思います。確かに、登場人物の性格や設定が、日本人っぽいのかもしれないですね。
では、自然とテイストが確立されたんですね。
ただ、絵を描き終えると、いやになるんですよ。もちろん気に入ってはいるのですが、もっと、こうすればよかった、と思っちゃうんで。だから、どの絵が1番好きですか、と聞かれても、うーんみたいな(笑)。今でも、どうしても、そうなんです。
なるほど。今回、展示している作品でも、新しい手法にチャレンジしてます。また、以前からユニークな手法も多いですよね。例えば、キャンバスに紅茶、コーヒーなどを浸して、黄ばみ、シミがある下地に描いている作品もありますね?
真っ白だと、綺麗すぎて落ち着かないんですよ。すごく綺麗なモノよりも、ちょっとくすんだ、それこそ古着っぽいほうが、好きなんです。
また、グレーのベタっとした色使いは、サンフランスコの曇りのイメージからきているのですか?
もともと、ベタっ、とした感じが好きだから、サンフランシスコも好きなんでしょうね。
背景と人物との境界線がハッキリしてるように感じる作品も多いですね。
そのほうがすごく納得できるんですけど、背景とか描いてないと楽してるんじゃないか、と思われないか不安になります(笑)。背景を描いてもシンプルなサボテンだけとか。背景をゴチャゴチャ描いても、あんまり上手くいったことがないんです。それよりも、ちょっとスペースが空いているほうが落ち着くんです。
色もそうですよね?
色数が多いのが、落ち着かないんです。色数は、少なめにしてますね。はっきりとした色は黒と白くらいで、あとは何色だよ、みたいなくすんだ曖昧なほうが好きなのかもしれません。
額を組み合わせている作品もいくつかありますね。
基本的に自分のなかで全ての作品にストーリーがあって、そのひとつひとつの話をまとめたら、ひとつの長い話になるかなと思ってつくりました。額が漫画のコマ割りみたいになっていて面白いかなって。
共通のテーマの絵を、まとめて組み合わせているんですか?
そうですね。共通のテーマだけど登場人物は、それぞれ別の動きをしている。同じ状況でもみんな考えてることは、同じじゃないみたいな感じが作れればと思って。
状況設定が広くなってるということですね。どっかの街のいち場面の、それぞれの感情や状況を描くイメージですね。
群衆のなかで、1人だけ逆向きに歩いている人がいても、いいんじゃないの、と思って描いたものは、わかりやすいかもしれないです。
シルクスクリーンの作品もあります。
シルクは好きなんです。べったりするし、人の手で刷ってるから好きなんですよね。
メディコムトイとのコラボレーションのソフビもあります。
立体物は面白いので、フィギアをやりたい、と思っていたんです。完成したのをみたんですが、超テンション上がりました。最初、もっと顔がきつかったので修正してもらったんですけど、造形師はすごいですね。猫背の感じもちゃんとだしてくれて、しかも、足の角度とか、素晴らしいです。
今回の展示以外では、昨年リリースされたヴァンズとのコラボは、花井さんの認知度を上げる意味で大きかったですよね。
出たのは去年なんですけど、取り組みがスタートしたのが3年くらい前なんです。そもそもグラビス(Gravis)のプロダクトのデザイナーと仕事をしてたんですが、グラビスがなくなって、そいつがヴァンズのプロダクト・チームに移ったんですよ。そしたら、今、ヴァンズにいるんだけど、なんかやんない、と誘ってくれてました。結局、繋がりなんですよね。
サーフィンやヴァンズというとスケートボードとの結びつきも強いイメージですが、スケートボードには惹かれなかったんですか?
周りにスケートしてる人がいたけれど、どうしても、痛くてダメだったんです(笑)。あとは、80年代とかの怖いスケートのグラフィックが苦手で。ドクロとか蛇とか、僕ら小学校の頃にパウエル(Powell)とか流行ったんですけど、それが嫌でした。親には、可愛いゴリラの絵のデッキを買ってもらいましたね。
グラフィティーは?
人に迷惑をかけるのが…。バリーさんは、広告に描くとかポリシーがあるじゃないですか。アメリカでもそれを真似して、わけわかんなく描いちゃったりしてる人とか、嫌ですね。おじいさんがタワシで自分の壁をゴシゴシ擦ってるのを見ちゃうと、こんなひどいことねえよなっ、と思っちゃって。切ないじゃないですか。それこそ、キース・へリング(Keith Haring)もチョークで描いてましたから。違法行為だろうけど、ポリシーがある人たちがやっていて、それが本当に素晴らしかったらいいですけど。ただ単に、タギングでいろんなところに描くのは、僕は好きじゃないですね。自分アピールが凄過ぎちゃって。マーキングみたいなモンじゃないですか。
サーフ・アートというジャンルがあるのかわかりませんが、そうカテゴライズされることも多いですか?
僕も、それがあんまりわからなくて。メディアの人がカテゴライズするじゃないですか。しかも、サーフ・アートとカテゴライズされるのがすごく嫌です。別に、サーフィンの感覚を描こうとしてるワケじゃないのに、サーフィンのことしか描いちゃいけないのかな、と思ってしまうんです。ただ、サーフィンをやってるアーティストだと、それこそ、リック・グリフィン、バリー・マッギーもガッツりサーファーですしね。難しいですよね。あと、気持ち悪いの、いるじゃないですか。サーフィンの感覚を描いているんです、みたいな。ああいうのが苦手で。
確かに、いますよね(笑)。
ちょっと偽善者感があるというか、とにかく苦手です。宗教じみてる感じがするんですよね。海のパワーをどうの、とか。サーフィンは好きだけど、それよりもサーファーの〈世捨て人感〉に惹かれます。仕事大丈夫ですか、みたいな。天気に左右されて、波に左右されて生きてるから(笑)。でも、そういう人たちのほうが活きいきしてる気がします。人間臭さがより強いほうが僕としては面白いし、好きなので、今描いてる絵になってると思うんですよ。
なるほど。そのような花井さんの人を見る視点と社会問題を繋ぎ合わせて作品を制作したりするんですか?
ないことはないです。ただ、そんなにアピールすることはないです。僕も基本的にはマジョリティーよりマイノリティーのほうに立ってると思うんですよね。別に、マジョリティーのなかにいなくても、好きなように生きてれば、変な人と思われようが、いいのかなと。
サーフィンだと自然環境の問題など、気になるんじゃないですか?
逗子でサーフィンしてるんですけど、逗子マリーナの沖に、オリンピックのセーリングの大会をやるために、僕らがやってるサーフポイントに、でかいホテルとハーバーを造って海を潰す計画があったんですよ。それには、みんなで反対しました。僕は絵を描きました。海を潰している人に反発する絵を描いたんです。金のために自然を潰すのには反対ですね。まあ、僕がサーフィンをやるから、そこに対しては敏感です。テトラポットに海の魚が文句つけてる作品も描きました。
お子さんもいるので、子供の教育問題などにも興味があるのでは?
もう7年目くらいになるんですけど、アメリカ人の友達で、小学校の先生がいるんです。友達の勤めている小学校は、パラマウントというコンプトンの隣で、なかなかの地域です。ゲットーというか、お金がない貧困層の地域だから、美術や音楽の授業がないらしいんです。全米統一の数学と英語のテストがあって、成績が悪い学校は閉鎖され、その学校の教員の給料が減らされてしまったようで、貧困地域ではベーシックな授業しか受けられなくなったみたいです。だから、勉強ができない子は、落ちこぼれるしかないんです。いくら歌や絵が上手くても、授業がないんで、評価してもらえません。それで友達は困っています。落ちこぼれる生徒は、その環境だし、ギャングみたいなロクでもないことになってしまう。
実際に、絵は好きだけど、全然勉強はできない、ちょっと知的障がいを患った女の子がいたらしいんですが、結局その子に何もしてあげられなかった、と友達は悩んでいました。切なくなってしまったその友達は、もともとサーフショップで働いていたので、そのとき知り合ったレイ・バービー(Ray Barbee)、シェパード・フェアリー(Shepard Fairey)とか、アーティストに相談したみたいなんです。そしたら、自分たちができることをやろうよ、となったんです。シェパードなら、放課後スクールで、シルクスクリーンで国旗をつくってみましょう、みたいな授業をしたり、レイがライブやったりしていたんです。
そしたら、僕も声をかけてもらったんです。例えば、Tシャツのデザインで、好きな言葉と絵を描きましょう、といった課題をだして授業をはじめたんです。毎年ドンドン大きくなって、何年か前には、学校の校庭に壁画を描いたんですよね。1年目は〈Be Active〉って描いたんですけど、校庭でアクティブに楽しもう、という感じなんですが、よく考えたら自分が校庭でアクティブに遊ぶタイプじゃなかったんですよね(笑)。それで次の年に、〈Anything You LIKE〉って言葉を加えて、〈自分の好きなコトにアクティブになろう〉ってメッセージに変えました。文系の子たちがいて、元気に校庭で遊んでる子がいて、という絵にしたんです。そしたら、子供たちがすごく喜んでくれました。ギャングにならなくても、好きなコトで生計を立てられる、と見本になれるんですよ。人により添えるっていうのは、それこそ僕なんか現代アートみたいなところにはいないですけど、好きな絵を描いて生活ができるのを示せるのは、有難いですね。
現在の日本社会に対して描きたいことはあるのですか?
人っていろんな側面があって面白いな、と描くんですけど、そういう風に描いて、花井はこう考えてる、と決めつけられると困りますかね。まぁ色々あっていいんじゃない、この人といるときはこうだけど別の人といるときはこうでもいいんじゃない、角度によって見えかたは違うはずだから。そんなもんじゃないの、そんな強くないんじゃないのと。僕がそんな強くないんで、なんでもいいじゃん、と僕の絵を見もらえたらいいですね。
メッセージ性が強いですよね。
自分と違うモノを排除しよう、という強さよりも、なんでもいいじゃん、ってほうが、カッコいいんです。自分の絵を見てそう感じてもらえたら嬉しいです。でも、考えずに見てもらって、自由に面白がってもらえれば、一番嬉しいですけどね。
ここまで、お話を聞いてきて、やっぱり不思議なのが、人の繋がり、それこそロード・アンド・スカイのオーナーとの出会いとか、グリーンルーム・フェスティバルで知り合ったキュレイターからの広がりとか、不思議というか、なんというか。
例えば、ヴァンズの話でいうと、もともとグラビスで働いていた人が、ヴァンズに移った話はしましたが、そもそもグラビスを紹介してくれたのは、さっきの小学校の先生なんです。その先生がいろんな人と繋がっていました。しかも、奥さんが日本人で、日本人の知り合いが少しいたんですね。
全然ピンと来ません(笑)。リアリティーがないです。日本人よりアメリカ人のほうが人の繋がりで広がっていくんですかね?
それはあるのかな。あのブランド格好悪くなっちゃったけど、こっちのブランドはカッコ良くなってる、と思ったら、もともとカッコ良かったブランドにいたスタッフが移っていたり。それで、新しいブランドがビジネス的に成功したら、でかい企業に売って、また新たにカッコいいことやるみたいな。繋がってる人たちは、だいたい、同じクルーというか、同じような人たちですよね。
グリーンルーム・フェスティバルに来た人がキーマンになって繋がった結果、アメリカ中に広がった。日本だったら、ビームスでやってもそこまで広がりませんよね。しかも、人の繋がりは日本のほうが多いですよね。アメリカでの広がり方は不思議です。
最近は、日本人アーティストが起用される機会も増えましたが、日本人はあんまり日本人を必要としていなかったんですかね。それよりも、カッコいい海外アーティストが求められていた気がします。あとは閉鎖的なんですかね。新人を発掘するより、狭いグループのなかでまわしているような感じもします。海外のほうが寛容ですよね。
また、花井さんの立ち位置も不思議ですよね。アーティストなのか、それともイラストレーターなのか。自分のことをアーティストだと思っているんですか?
いや、どうなんでしょうね。人に任せてます。イラストレーター、とも呼ばれますし。たぶん、偉い現代アーティストには、こんな奴はアーティストじゃない、と思われてるかもしれませんね。
絵をやめてください、と言われたら苦しいですか?
どうしましょうか、困っちゃいますね。
お金はあげます、と言われたら?
お金をくれるんだったら別にいいですよ。毎日サーフィンして過ごします(笑)。
では、絵が自分の中で絶対的に必要なものではないんですか?
どうなんでしょうね。好きで描いてはいるんですけど。
ある種、暇つぶし的な。
それもあるのかもしれませんね。ガッツり描いてないと、というほどアーティスティックでもないでしょうし、本当に普通だと思いますよ。
ただ、世の中に対してのメッセージは、絵に込めていますよね? ルーズでいい加減、と思われると、社会が提示する価値観に寄り添えなかったりするから、生きていくのに不安になったりもするじゃないですか? そのひとつの表現が、花井さんにとっては絵なのかな、と感じるのですが。
確かにそうかもしれないですね。ただ、エログロみたいなアートは苦手なんですよ。アートにはそういう表現が多いじゃないですか? そこはどうも苦手で、そうじゃなくていいんじゃないかと。
確かにエロい作品はないですね。セクシーな女性がいても良い気がします(笑)。
下手なんです。上手く描けないかもしれないですね。どうしてもマヌケになっちゃうんですよ。例えば、一見セクシーなんだけど、チャックが開いているとか、ちょっとマヌケなことをさせたくなっちゃうんですよね。
なるほど。
派手な女性が苦手です。奥さんも地味です(笑)。あんまし喋れないですしね。綺麗な女性は好きですけど、気が小さくて、浮気もできない。
例えば、私生活でちょっとマヌケな女性の仕草に、エロさを感じたりしないのですか?
それはないですね。マヌケさには興奮しません。かといって、女性に完璧さは求めません。
花井祐介
1978年生まれ、神奈川県出身。2006年ザ・サーフ・ギャラリー(TheSurfGallery)にて展示を開始。2017年作品集『Ordinary People』をリリース。ヴァンズ、ビームス、ニクソンへのアートワークの提供でも注目を集めている。また、原宿にあるGALLERY TARGETにて、2017年11月17日から12月8日、12:00 から19:00まで(日祝日休廊)個展を開催している。